2021年2月27日土曜日

お子ちゃま向けでも侮れない 宮古島わいわいビーチ

 


 子供連れでも安心して遊べる系のビーチですが、写真に撮るとこんなに美しい海です。
 もう、さすが宮古島!としか言いようがありません。

 宮古島の南部にある、わいわいビーチ(博愛わいわいビーチ)です。




 防波堤に囲まれた人工ビーチです。
 堤防の内側は、きちんと整備され、砂浜も復元されています。人工ビーチはちょっと、と思われる人も多いと思いますが、リゾートプールだと思えば、かなり贅沢です。

 子供連れより、大人の方をよく見かけます。 



 防波堤の外側の海を見ています。といっても、普段はそんなに波が高いわけでもありません。ここは、カメと遭えるポイントの一つ。でも、珊瑚はあまりありません。



 こうして見ると、ホテルの専用ビーチみたいですが、誰でも、自由に行って泳げます。




 防波堤の先端にある謎の四阿。骨組みだけで屋根がない。

 インギャーにもこんな骨組みだけの四阿がありますが、これは、知る限り宮古島にしかありません。何故屋根がないのでしょうか。台風対策?
 でも、これじゃなんのために存在するのか分かりません。



 ここで寝転んでいたら、体がゼブラ模様に焼けるかも。笑




 ここは、合併して宮古島市になる前は、上野村だった場所です。

 何もない上野村の唯一のウリは、「うえのドイツ文化村」。
 ま、テーマパークと言えばテーマパークです。

 1873年(明治6年)、ドイツの商船ロベルトソン号が台風で漂流し、座礁しました。宮古島の人は、荒天の中乗組員8人を救助し、官船で帰国させたそうです。
 後に、このことを知った当時のドイツ皇帝ウィルヘルムⅠ世が、宮古島の人々の勇気と博愛の精神をたたえ、記念碑を建立したという、メデタシメデタシなお話です。


 この博愛わいわいビーチとか、お隣の博愛漁港とか、何にでも博愛が付いている理由はそういうことです。

 正面に見えるピンクのお城は、ドイツ文化村の博愛記念館です。(決して○○ホテルではありませんぞ。)




 駐車場があり、簡単なシャワーとトイレもあります。

 ですが、宮古島にはもっと綺麗で、もっと広いビーチが沢山あるので、ここは地味系なビーチに止まっています。

 その分、変な商売をする奴も、ジェットスキーのような飛び道具もやって来ません。スルーしてしまうのは、ちょっともったいない感じです。




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2021年2月22日月曜日

Look back1972 沖縄返還と狂った切手 Ⅱ

   

 前回の続きです。 


 1972年(昭和47年)、返還直前の沖縄での切手騒動が内地にも伝播します。

 「沖縄では、切手が大変なことになっているらしい。」切手収集家はもちろん、子供の頃ちょっとだけ切手集めをしていた、なんていう人達がザワザワし始めます。





 突如降ってわいた沖縄切手狂想曲。これに乗じて、一儲けしてやろうと考える者が現れたとしても不思議ではありません。

 彼らは、沖縄切手をコレクションしましょうとPRするのではなく、沖縄切手は将来値上がりするから、投資物件として有望だと言い出したのです。
 つまり、今のうちに買い占めておいて、高くなったところで収集家に売れば儲かりまっせ、という話です。


 「切手投資センター」という業者が現れ、「切手投資新聞」みたいなものが発行され、それには株価のような「切手市況価格」が載っていたのです。

 そして「市況価格」は、上げの一本調子。

 「沖縄切手で儲けろ」なんていう凄いタイトルの本が、一般の書店に並んでいました。





 三越などの大手デパートを会場に、「沖縄切手大即売会」が、沖縄を含む全国各地で開催され、開店前から人が並ぶ加熱ぶり。

 プレイステーションやWindows95のように、人より早く使ってみたいから並ぶのではなく、今買っておかないと、次回は値上がりしているかも知れないから、早く行って並ぶのだとか。

 ショーケースに並べられた沖縄切手のシートが飛ぶように売れ、1回のイベントで1億2千万円を売り上げたと報道されたこともありました。


 その沖縄切手狂想曲のシンボルとして利用されたのが、1958年発行の「守礼門復元記念」切手です。
 沖縄戦で焼失した首里城のうち、この守礼門がいち早く復元され、それを記念して発行された記念切手です。

 沖縄を象徴する図柄と明るい色調は、「沖縄切手最大の人気銘柄」で、子供たちにも人気がある。そう説明されましたが、既に子供に買える値段ではなくなっていました。

 当時、この切手のカタログ価格は1枚4千円。1シート(10枚)の「市況価格」は3万7千円で、それが「年内10万円確実説もある」と吹聴されたのですが・・・


 一方で、こんな狂想曲を嫌悪する収集家や切手商も大勢いました。本物そっくりのシールを配って、抗議したのです。





 さて、沖縄切手狂想曲の顛末ですが、ご想像のとおりの展開となります。

 切手に一定の値段が付くとしても、それはコレクターズアイテムとしての価値であって、その趣味がない人同士での取引は、本来成立し得ないものです。

 ヤフオクもない時代、買ってはみたものの、いざ売ろうとしてもなかなか買い手が見つかりません。
 「高価買取り」だったはずの切手商は、「買い取り予定数に達した」とか何とか言って買い渋り、そうこうしているうちに「市況価格」はどんどん下がり、その言葉すらも消えてしまいました。

 返還前の沖縄だけで使用できた切手なので、その後は、郵便に使うがことできない、すなわち額面の価値すらも保証されないのです。


 上手く立ち回って甘い汁を吸った少数の人と、一攫千金を夢見てババを掴まされた大勢の人達。
 世の中うまい話はないという、当たり前のオチが待っていました。



 それは、復帰前に郵便局に並んだ沖縄の人達も同じです。 

 あの騒動ですから、無事お目当ての切手が買えたとしても、相当な労力を費やしたはず。

 それでも、「2倍で買い取る」と言われて売った人は、僅かながらも小遣い稼ぎになったかも知れませんが、もっと高くなると信じて温存した人は、「あのとき売っていればなあ」という愚痴をこぼす羽目になったと思います。
 




 あれから数十年。切手収集自体が、大衆の娯楽から一部のマニアックなの人達の趣味になり、当時の狂乱を知る人も少なくなってしまいました。


 上の写真は、自分の沖縄切手コレクションです。世が世なら、銀座で連日豪遊ができたかも、なのですが、実は後年、往時と比べれば二束三文に近い値段で買い集めたものです。

 何故今更、と思われるでしょうが、沖縄が好きだから、というのが一番の理由ですが、ほかにも理由があります。

 利用するだけ利用しておいて、用が済んだら見向きもされない沖縄切手は、琉球処分で日本に併合され、終戦によりアメリカ占領下に置かれた沖縄そのものの歴史と重なるような気がして。

 ちょっと大袈裟ですかね。笑



 2回に渡って異色の記事を書きました。次回からは、またいつもの写真紹介記事に戻ります。





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2021年2月18日木曜日

Look back1972 沖縄返還と狂った切手 Ⅰ

 

 今から約半世紀も前のことですが、1972年・昭和47年の5月15日、アメリカの占領下だった沖縄が日本に返還されました。

 あの頃、一部の人達の間で、バブルもびっくりな狂乱のマネーゲームが繰り広げられていたのです。

 その主役は不動産、ではなく、何と切手!

 今回の記事はちょっと異色ですが、沖縄にまつわる実際にあった物語の紹介です。





 昭和30年代から40年代にかけて、日本では切手収集がブームでした。特に子供達の間で盛んで、小学生の男の子なら一度は切手集めをすると言われたほど。
 グリコのおまけが、世界の切手引換券だったという時代があったのです。


 この当時、切手神話なるものがありました。「記念切手を買っておけば必ず値上がりする」というものです。バブルの時の土地神話とそっくりです。

 大人達は、将来の値上がりを期待し、記念切手をシートで買い、貯め込んでいました

 今ではとても信じられないことですが、記念切手の発売日には、郵便局に開局前から大勢の人が並んだのです。 
 昼頃に行って、「今日発売の切手をください」と言うと、局員から「この世間知らずが」とでも言うような目で、「売り切れました」とクールに返される時代だったのです。

 世の中には、趣味の切手を売買する「切手商」なる人達が沢山いました。何処のデパートにも必ず「趣味の切手売り場」がありました。


 そんな切手ブームですが、昭和40年代も中頃になると、一時の熱が徐々に覚めていきます。理由は、商売に目覚めた郵政省が、記念切手の発行枚数をどんどん増やしたからです。

 そんな折り、返還直前の沖縄で、空前の沖縄切手狂想曲が演じられたのです。





 当時沖縄では、琉球郵政庁が独立会計で郵便事業を行っていました。収集家が「沖縄切手」と呼ぶ、「琉球郵便」の文字が印刷された、ドル表示のオリジナル切手が発行されていました。

 沖縄が返還されたら、沖縄切手はもう発行されなくなる。そんなことが内地の収集家の間でも話題になっていたのです。


 一部の切手商は、千載一遇のチャンスとばかりこれに飛びつきました。

 沖縄が日本に返還されれば、今まで沖縄切手を集めていなかった内地の収集家が沖縄切手を集めるようになる。そうなると、沖縄切手が値上がりすると大々的にアピールを始めたのです。

 今から思えば、荒唐無稽な理屈ですが、さらにその上、沖縄切手は日本切手に比べて発行数が少ないとか、当初は注目されていなかったから郵便に貼って使われてしまい、未使用の現存数はさらに少ないなどと煽ること煽ること。


 加えて、琉球郵政庁のまずい対応がこれに拍車をかけます。

 沖縄切手は、在琉米軍の関係者などアメリカにもコレクターがいたことなどから、郵政庁は窓口販売のほか、通信販売をしていたのですが、復帰前年の12月、復帰による混乱を避けるためという理由で、突如通信販売を中止します。


 通信販売を利用して新発行の沖縄切手を購入していた切手商は、予定数量を確保するため、アルバイトを雇って郵便局に並ばせます。並ぶ人が多くなると、郵便局は一人当たりの発売枚数を制限するようになります。
 切手商は、今度は、切手を買うために並んでいる一般の人に向かって、額面の倍で買い取るから売ってくれなどと言いだしたのです。

 今買った切手が、即2倍で売れるのです。しかし、それで皆が売るわけではありません。こんなに簡単に値段が上がるなら、持っていればもっと上がるだろうと思うのが人情というもの。





 昭和47年4月20日、沖縄切手として最後の発行となる切手趣味週間記念の切手には、図案中に「Final Issue」の文字が入ることが分かり、ブームは益々加熱します。
 
 この日、この切手を買うために、那覇東郵便局(今の那覇中央局)に並んだ人は、な、な、なんと数万人に上ったのだとか。
 東京ドームの観客が、試合開始前に一箇所の入り口に並んだような騒動です。

 どんだけぇ~






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