時は西暦1500年2月13日、中山(ちゅうざん:琉球王府)は、王への朝貢を絶ち臣民である宮古を攻めた八重山の首領オヤケアカハチに対し、琉球軍の軍船大小100艘、琉球兵3千人を送り込み、これを討ち取った・・・
とこれは、中山側の資料によるものですが、石垣島では、
年貢を拒否し、中山へ反旗を翻したオヤケアカハチは、正義感が強く、島民開放のため先頭に立って権力に立ち向かった英雄で、島民達から太陽と崇め立てられ、信望を一身に集めていた、
となるのです。
そんな八重山の英雄、オヤケアカハチの居城跡だと言い伝えられてきたのがこの場所。石垣島にあるフルスト原遺跡です。
遺跡には、石塁の遺構、古墓、御獄跡などがあり、中国製の陶磁器や八重山焼の破片が出土しているそうです。
古文書にもそれと矛盾のない記述がある一方、生活用品は多数出土するものの、武器が出てこないなど、本当にオヤケアカハチの居城だったかは真偽不明です。
フルスト原遺跡の南西に広がるのは、旧石垣空港跡地です。
旧石垣空港は、戦時中日本海軍の石垣飛行場として開設されました。
戦下で物資が不足する中、近くにあった遺跡内から、鉄製品を始め多くの物が軍に供出されてしまい、遺跡は荒れてしまったそうです。
石垣飛行場は、戦後は民間機のための空港となりましたが、滑走路が千五百メートルしかなく、飛行機のジェット化に適さなかったことから移転が検討されます。
当初は、旧空港を延長する案もあったのですが、滑走路の南西側には市街地が迫っており、北東側にはこのフルスト原遺跡があったため、延長案は消えたとされます。
確かに、貴重な遺跡を潰して空港にするのはどうかと思いますが、その代替案とされたのが、珊瑚礁の白保の海を埋め立てて建設する案だったので、本当に遺跡を守るためなのか、単に大規模な土木工事をしたかっただけなのではないかと、つい勘ぐってしまいます。
復元された石塁。竹富島では今でも見かける、珊瑚石灰岩の野面(のづら)積みです。
さて、オヤケアカハチに話を戻します。漢字で書くと遠弥計赤蜂だそうですが、別の説もあります。
赤い髪をしていたことは間違いないようです。
元来、宮古・八重山は、琉球には属さない、大平山(タイビンサン)と呼ばれる地域で、首里城内の欄干銘には、宮古島を太平山と記している箇所があります。
その後中山(琉球王府)の侵攻に対し、宮古島の酋長であった仲宗根豊見親(なかそねとぅみや)は恭順の意を表し、中山王から島主に任ぜられました。
宮古が朝貢国となったことを受けて、八重山にも同様の主従関係を求めてきたことに対し、オヤケアカハチ率いる八重山の軍勢が反抗したのが、オヤケアカハチの乱です。
「乱」というのは、中山側から見た歴史であって、八重山では、敗れはしたものの、中山の侵攻から現地の民を守ろうとしたアカハチは、地元の英雄として今も名を留めています。
石垣市立大浜小学校に向かって檄を飛ばしているかのようなアカハチ。「ゲームばっかりしていないで、勉強しろ!」なんて言っているのでしょうか。
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