2022年5月28日土曜日

沖縄の都会 那覇ならではの夕日・夕景

 


 黄金色に輝くゆいレール。ここは、那覇市壺川です。



 この川は国場川、この橋は明治橋。
 この橋を境に、南(左側)は国道331号線、北は国道58号線となる、那覇市内の交通の要衝です。




 こんな沖縄の都会、それも那覇市のど真ん中で夕日を撮ってみました。

 夕日を見に行くとなれば、普通は西側に海が広がる場所を目指しがちですが、必ずしも海に拘らなくとも、こんなナイスな光景にお目にかかれることもあります。




 こちらは、那覇市若狭の若狭公園付近です。

 ちょっと出来過ぎな感じすらありますが、子供の像と那覇空港を飛び立ったばかりの飛行機です。




 再び明治橋に戻ります。




 ちょうど通りかかったバスが、沈まんとする夕日にかかります。ラッキーでした。なかなか見られる光景ではありません。




 西日を受けるゆいレールの車両ですが、逆に車内からは、綺麗な夕日が見えていたことでしょう。




 沖縄県の県庁所在地である那覇市。人口30万人超の都会ですが、海に近く、空港も近いことなどから、他の都市とは少し違った景観を造りだしています。


 那覇再発見、というとちょっと大袈裟ですが。





 新着記事は、Twitter と Facebookでお知らせしています。

 スマホの方は、「ウェブ バージョンを表示」をタップすると各種機能が使えます。


2022年5月24日火曜日

この夏の沖縄レンタカー問題



 3年振りに賑わったGW。沖縄にも大勢の観光客が訪れました。

 ところが、行ってみたら想定外のことが・・・ 




 レンタカーが借りられない!



 簡単に説明すると、こういうことです。

 コロナ前、観光客が激増したので、レンタカー業者はドンドン増車した。
 ところが、コロナで転けたので、ガンガン減車した。
 今年のGWは久々に観光客数が増加したのに、対応できない。

 とまあ、こんな感じです。


 朝日新聞(web版)が報じたところによれば、

 沖縄県レンタカー協会によると、コロナ前の2019年7月のレンタカー保有台数は、2万7710台だったのに対し、2022年3月はピーク時の44.8%減の1万5726台と大幅に減った。
 通常なら、GW前は、各社需要を見越して増車するが、4~5月も約1万5800台(推定値)にとどまる。

 のだそうです。


 大手レンタカー会社は、新車を購入し、車検時に手放すことが多いので、この2年間に車検を迎えた車が放出された一方、新車の導入を控えたのだと思います。

 そして、「さぁ、かき入れ時だ」と発注を掛けたら、半導体不足や国際情勢により、新車が購入できず、ずるずるとGWを迎えてしまった、とそんなところでしょうか。



 これは、沖縄に限らず全国的な問題なのですが、どうも調べてみると沖縄で特に顕著です。

 陸続きの内地と違い、沖縄は車の輸送に時間とコストがかかるから、

 と説明されるのですが、儲かりそうだと思ったら後先考えず波に乗ろうとし、やばそうになったらあたふたと処分する、みたいなのは、いかにも・・・何というか・・・らしい・・・ですよね。笑


 また、それに伴ってレンタカー代金も上昇しています。

 これに関しては、今まで過当競争で安売りを強いられていたのを元に戻したと、いう側面もあるのですが、借りる方からすれば、去年までと比べたら高いと感じるでしょう。




 夏になり観光客が増えれば、GWと同じ騒ぎが起きるのではないかと心配する向きも。      
 それに乗じて、SNSなどでは、この調子で夏を迎えたら大変なことになる、と煽るような記事も見かけます。

 なので、どうすればいいのか、主に宮古島、石垣島を念頭に考えてみました。






慌てない

 レンタカーが足りないと言っても、島内にあるレンタカーが、全て効率よくフル稼働しても足りない、というわけではありません。
 管理システム上は満車でも、実際には稼働していない車もあるはずです。

 車が足りないことが分かってくれば、業者も効率よく廻す手段を考えます。

 今年のGWでも、レンタカー難民が続出したというほどでもありませんでした。大体最後は何とかなっています。

 今年は、レンタカーを借りるのに手間がかかる、くらいの問題だと考えてください。
 焦って、残っていた高級車を高額で借りた、なんてことのないように。

 発注を掛けたのに納車が遅れている車も、夏までには、ボツボツ届き始めるでしょう。


早めの予約

 まあ、何と言ってもこれが一番の対策です。航空券の予約ができたら、速やかにレンタカーを探しましょう。


地元系業者を探す

 宮古島にも、石垣島にも、地元系の小規模レンタカー会社がいくつかあります。

 こういうところは、大概、本業は自動車修理工場で、中古車を仕入れて自社で整備しながら安く貸す、というのがビジネスモデルなので、半導体不足などの影響を直接受けることはありません。

 旅行会社のサイトや、一括検索サイトには載りにくく、ガイド本やタウンページ的サイトで探して、電話をするというアナログな予約が多いのですが、その分穴場と言えます。


日数を調整する

 借りる日数を短くすれば、空が出てくる可能性が高くなります。

 今までは、空港到着後すぐにレンタカーを借り、最終日に空港で返却していた人でも、到着が夕方とか、出発は午前中という場合には、その日はホテル・空港間の移動だけと割り切って、ホテルの送迎バスや、タクシーを使い、本当に観光する日に絞ってレンタカーを借りるという作戦です。

 レンタカー屋は、1日単位で車を管理する所が多いそうなので、その場合、夕方から借す、朝返しに来るといった場合でも、その車は1日稼働する扱いになります。
 客から見れば、借りるのは夕方で、当該車は既に返車されていても、業者のシステム上では空車がないことになるのです。

 特に石垣島に泊まり、離島にも行くという人であれば、離島に行く日はレンタカーを使わないことにするのがいいでしょう。
 そのために、離島ターミナルから近いホテルを予約するのがいいと思います。


直前のキャンセルを待つ 

 レンタカーに限りませんが、都合により旅行そのものを中止する人が必ずいますから、早期に予約できなかった場合は、キャンセルが出るのを待ってください。

 航空券やツアーのキャンセル料の節目となる、20日前、14日前、2日前などの直前・直後には、レンタカーをキャンセルする人も多いので、その辺りが狙い目です。


オプションの見直し

 これは、価格対策の話です。

 過去記事でも書きましたが、近年レンタカー会社は、レンタル料本体を安くし、その分保険で儲けるみたいな感じのことをやっています。

 レンタカーの本体価格が上がった今、免責保険その他は、本当に必要なオプションか、精査したらいかがですか、ということです。

 
 (レンタカーと保険の話はこちら。)





レンタカー無しで過ごす方法

 最後におまけとして、もしレンタカーがないとしたらどうするのか、ちょっと考えてみました。

 空港・ホテル間の移動は、送迎をしてくれるホテルもあるので、まずは、そこから当たりましょう。

 石垣島なら市街地のホテルであれば、路線バス利用で問題ありません。

 宮古島は、ちょっと問題ですが、下地島空港であれば、飛行機の発着に合わせてバスが出るので、市街地や有名どころホテルはそれで行けます。

 宮古空港にもバスがありますが、本数が少なく、飛行機の発着と連動しないので、運次第といった感じです。やむを得ない場合は、タクシーに乗るしかありません。


 滞在中の路線バス観光は、石垣島なら多少できますが、宮古島はちょっと非効率です。宮古島のバス網は、以前よりは改善されましたが、観光に使うにまだまだ不便です。

 石垣島滞在なら、船で行く離島観光を組み入れることで、レンタカー無しで過ごすことができます。
 

 マリンスポーツをメインの人は、ホテルまで迎えに来てくれるショップを使えばいいでしょう。
 逆に言えば、この際、島巡りより、シュノーケリング、SUPといったマリンスポーツを主体に遊ぶという手があります。



 現実問題として、石垣島ならまだしも、宮古島でレンタカーがなければかなり厳しいように思いますが、それでも、少数ながら免許無し・車無しで宮古島にやって来る人もいて、それなりに楽しんでいるようなので、レンタカーがなければ絶対ダメ、ということでもなさそうです。


 夏のシーズンが終わった頃、沖縄ではレンタカーが溢れ・・・てなことになっているかも知れません。





 新着記事は、Twitter と Facebookでお知らせしています。

 スマホの方は、「ウェブ バージョンを表示」をタップすると各種機能が使えます。

 

2022年5月20日金曜日

那覇から粟国島へ 弾丸日帰り

 


 那覇泊港。朝9時。
 これから、フェリー粟国に乗って粟国島日帰りの旅に出るところです。




 粟国島へは、那覇から1日1往復運航されている船に乗って行きます。

 所要時間は約2時間。現地到着は11時30分、出発は14時なので、日帰りしようとすると島滞在時間は、約2時間半しかありません。

 運賃は、往復6,590円。滞在時間で割ると、メチャメチャコスパの悪い旅です。



 9時30分、フェリー粟国は、定刻に那覇泊港を出港しました。
 間もなく泊大橋の真下を通過します。なかなかの迫力です。



 やがて船は、那覇空港の北西側を通過します。少しの間ですが、地上からは見られない、飛行機マニア垂涎の光景が広がります。




 那覇を離れると、船は、ただただ青い海の中を突き進みます。

 お昼の時間は、ちょうど島で迎えるわけですが、食事をしている時間も惜しいので、今のうちに、泊港のコンビニで買ったおにぎりをかっ込みます。



 出航から2時間。若干遅れましたが、粟国島が見えてきました。これは公園ですかね。



 11時40分、粟国島に到着しました。

 何しろ時間がない。すぐに、今回の目的地である島の南東側にある長浜(ウーグ浜)を目指して歩き始めます。



 村営のコミュニティーバス、アニー号。
 船の発着に併せて、集落内をグルッと一回り。1回100円です。

 しかし、集落内を廻るだけなので、これは使えません。目的地に向かってひたすら歩きます。



 先ほど見えていたのは児童公園のようなものでした。芝生養生中のため立入禁止。ですが、そもそも周囲には誰も居ません。



 このブランコは気持ち良さそう。大きく漕いだら、海にまっしぐら、みたいな。



 歩くこと約45分。

 取り敢えず、今回の目的地の長浜に到着しました。といっても、長浜自体が広く、後で地図を確認したら、児童公園周辺も長浜の一画のようです。


 沖縄らしいコーラルブルーの海。広く、そして、人っ子一人居ない静かなビーチです。



 ここで、ずっと写真を撮っていたかったのですが、何しろ時間がない。
 早足で歩きつつ、写真を撮り、また歩き、写真を撮りを繰り返し、残り後1時間ほどになったところで、帰路に着きます。



 途中見つけた、寂れた看板。
 粟国島と言えばこれでした。でも、映画の公開は1999年なので、知らない人も多いのでしょうね。



 やっと集落まで戻ってきました。「粟国島産やぎ肉」の幟が。ヤキニクではなくヤギニクですよ。



 大急ぎで戻って来たので、出航までまだ30分ほどあります。港周辺を少し散策しました。
 粟国港周辺は、公園として綺麗に整備されています。背景の海が最高です。




 一方、粟国港のターミナルは、もの凄く簡素です。券売所の窓口と僅かな椅子が並べられているだけの小さな建物。2階が乗務員の控室になっているみたいです。

 豪華だった伊江島のターミナルとは天地の差です。
 

 往復券を買っておいたのでそのまま乗れるだろうと思っていたら、驚いたことに、窓口で搭乗者名簿に記入し、券に確認のスタンプを押してもらえと。

 つまり、チェックインが必要だということです。こんなの初めて。




 粟国島は、これまで行ったことがなく、かねてから一度行ってみたいと思っていたのですが、情報も少なく、なかなか行く機会がありませんでした。


 いつまでもダラダラと考えていないで、取り敢えず日帰りでもいいから一度島に足を踏み入れて、どんな所か自分の目で確かめてみようと思い立ち、今回の弾丸旅行となった次第です。

 僅か2時間強の滞在でしたが、天気に恵まれ、素晴らしい景色を堪能することができました。その様子は、また改めて。


 これで、足を踏み入れていない沖縄の島(有人島)は、定期航路のない、久米島の近所のオーハ島と多良間島の隣にある水納島だけとなりました。


 それがどうした、と突っ込まないでね。笑





 新着記事は、Twitter と Facebookでお知らせしています。

 スマホの方は、「ウェブ バージョンを表示」をタップすると各種機能が使えます。


2022年5月15日日曜日

沖縄復帰50年記念 あのときの宮古・八重山へ

 

 1972年(昭和47年)5月15日

 宮古島地方の天候は雨 最高気温は25.3℃
 石垣島地方の天候は雨 最高気温は25.5℃


 50年前の今日、アメリカの統治下だった沖縄は、日本に復帰しました。そして50年前の今日から、パスポートなしで沖縄に行けるようになったのです。

 もし、あの日、あのころの宮古・八重山にタイムスリップできたらと妄想しながら、復帰50周年を祝いたいと思います。





50年前の宮古諸島

宮古島 
 1972年当時、宮古島は平良市、城辺町、上野村、下地町の1市2町1村からなっていました。
 人口は、1市2町1村の合計(他島含む)で5万7000人程でした(現在の宮古島市は約5万2000人)。
 当時、若者の沖縄本島流出が、社会問題になっていました。

 
池間島
 平良市の一部でしたが、平良港から1日1便出港する船か、狩俣からの小型の渡し船で行き来しなければなりませんでした。人口は2300人程でした(現在は600人弱)。
 漁業の島でした。

大神島
 平良市の一部でした。人口は200人程でした(現在は約20人)。
 あの小さく平地の少ない島に200人も人が居たとは信じられませんが、産業等詳しいことは分かりません。

来間島
 下地町の一部でした。前浜港と来間港を結ぶ船で宮古島と行き来しました。人口は540人程でした(現在は約150人)。
 半農半漁の、自給自足に近い生活を送っていました。

伊良部島
 当時は、伊良部村でした。人口は1万2000人程でした(現在は約5000人)。
 漁業のほか、農業も盛んでした。宮古島からは、かなり独立して生活が営まれていたようです。

下地島
 伊良部島と共に伊良部村に属していました。人口は僅かでした。あの下地島空港は、復帰直前の1972年4月に着工しました。


多良間島
 当時から1島1村で、人口はよく分かりませんが、2300人から3500人の間でした(現在は約1300人)。島の基幹産業は農業で、主力はサトウキビです。

 
50年前の八重山諸島

石垣島
 当時から1島1市で、人口は3万5000人程でした(現在は約4万7000人)。
 昔から八重山の中心地であって、竹富町役場が石垣島にあるのは、当時から変わりありません。


八重山郡竹富町の島々

竹富島
 人口は、400人程でした(現在もほぼ同じ)。産業がなく、若者が石垣島に出てしまうことから、当時としては珍しい高齢化の進んだ島で、人口の4分の1が70歳以上でした。

黒島
 人口は720人程でした(現在は約220人)。産業は、漁業と、西表島まで遠征して行う稲作でした。

新城島(パナリ)
 人口は約100人程でした。現在の人口が、住民票では10人程度、実際に住んでいる人は居るか居ないか、というくらいですから、100人は驚異的です。
 今はない、石垣島からの船便もありました。

小浜島
 人口は870人程でした(現在は約720人)。周辺離島と比べ、土地が肥沃であったことから農業の島でした。

西表島
 人口は3500人程でした(現在は約2400人)。東部の中心市街は古見、西部は祖内でした。稲作が広く行われていました。
 東部と西部を行き来する道路がなく、石垣島経由で船で行くしかありませんでした。

鳩間島
 人口は200人程でした(現在は約50人)。あの小さな島に200人も居たのは驚きです。石垣島からの船は、不定期便でした。

波照間島
 人口はよく分かりませんが、1000人程だと思います(現在は約500人)。産業もよく分かりませんが、サトウキビ栽培は間違いなく行われていました。
 石垣島からは、船で約4時間もかかりました。


与那国島
 当時から八重山郡与那国町で、人口は4000人程でした(現在は約1600人)。
 渡難(どなん)と呼ばれたほどの孤島ですが、空港が出き、石垣島とを結ぶ空路がありました。しかし、運賃は、那覇-宮古島線よりも高価だったといわれています。




50年前の航空路線

 1968年に発足した南西航空(現JTA)が、那覇-宮古島・那覇-石垣島・石垣島-与那国島・石垣島-宮古島の各路線を、3機のYS-11で結んでいました。

 YS-11型機は、それぞれ「あだん」「ゆうな」「ばしょう」と名付けられていました。
 (当時は飛行機が少なかったため、飛行機1機1機に愛称が付けられていました。有名なのは、日本航空の「よど号」でしょう。)

 所要時間は、宮古島までは1時間5分、石垣島までが1時間30分でした。

 正確な運賃がどうしても調べられなかったのですが、復帰直前の運賃が、那覇-宮古島が大人片道で11㌦98セントだったので、1㌦360円としておよそ4000円程度、同様に、那覇-石垣島が6000円程度だったみたいです。

 はがきが10円、国鉄(現JR)の初乗り運賃が30円の時代でしたが、意外に安いようにも感じます。
 
 多良間島へは、宮古島から沖縄航空のエアタクシー(不定期貸し切り運送)の空路がありました。

注:沖縄航空は、おそらくは、沖縄旅行社(現沖縄ツーリスト)の関連会社だと思います。


 当時の航空券は、島在住者に優先購入枠があったので、観光客が買うのは大変だったそうです。


(coralway2013年清明号より)


50年前の海上交通

 宮古では、はやて海運(後のはやて)、伊良部海運(後の宮古フェリー)が、宮古島の平良港と伊良部島の佐良浜港を結んでいました。

 多良間島へは、宮古島の平良港から、基本2日で1往復の船便が運航されていました。
 遅くとも、1983年には、多良間村が出資する多良間海運によって運航されていますが、1972年当時がそうだったか、分かりませんでした。

 池間島、大神島、来間島への航路については、調べられませんでした。


 八重山では、この年に複数の船会社を統合する形で誕生した八重山観光フェリーと、復帰を見込んで1970年に発足した安栄観光が、石垣島と周辺離島を結ぶ航路を担っていました。
 また、波照間航路に関しては、この年に設立された波照間海運が担っていました。


 特筆すべきは、八重山観光フェリーが、なんと2隻のホバークラフト船を運航していたことです。
 今の高速船よりも早かったのですが、10年ほどで廃止となりました。

 ホバークラフト船の運賃は、石垣島-大原(西表島)間で片道640円でした。

注:ホバークラフトは、当時全国各地に導入されましたが、燃費が悪いことなどから淘汰されました。

 



50年前の宮古・八重山観光

 1972年の入域観光客数は、宮古島が3万2608人、石垣島が3万6863人(推計値)だそうです。

 この当時、既にこれだけの人が宮古・八重山を観光していたということは、驚きです。沖縄県全体でも約56万人でしたから、沖縄旅行者の1割以上の人が、先島観光に行っていたことになります。


宮古島観光

 那覇で飛行機を乗り継いで、宮古飛行場に向かいます。
 しかし、当時、那覇-宮古島線は航空券がなかなか取れなかったので、那覇から船で向かう人も多かったようです。
 船では、12時間かかりました。

 那覇を起点に、1泊2日のモデルコースで、交通費の概算は1万9400円(飛行機利用)と紹介されています。

 島に着いてからは、バスかタクシーで移動します。レンタカーはないか、あっても観光客が借りられるものはありません。
 

 名の知れたビーチは、ぱいながま、砂山、前浜でしたが、当時、遙々宮古島まで来て泳ぐという人はほとんどいなかったようです。

 ちょっともったいない感じもしますね。
 シュノーケリングでもしてみたら、どんなに綺麗だったでしょう。もちろん、ダイビングショップなどもありません。


 島一番の景観地は、東平安名崎ですが、市街地から遠く、行くのは大変だったようです。

 それ以外の見所は、仲宗根豊見の墓、人頭税石、久松五勇士顕彰碑、ドイツ皇帝博愛記念碑、平良市亜熱帯植物園、ムイガー、西平安名崎、伊良部島の佐和田の浜などです。

 市街地を一歩離れると、見渡す限りサトウキビ畑が広がっていました。

 伊良部島以外の島に行く人はほとんどおらず、観光的な見所もありませんでした。


 宿は、日の丸旅館(現ホテル共和)ほか数件あり、ほとんどが西里通り周辺にありました。リゾートホテルはありません。

 食事は、レストランのむらが当時から有名でした。
 島エビ(多分伊勢エビのことだと思います)料理がウリで、パパイヤの煮付けとニガウリ炒めが、内地からの観光客を驚かせていました。

 土産物としては、宮古上布の織物が最上級品でした。




石垣島観光

 那覇で飛行機を乗り継いで、旧石垣空港に向かいます。
 当時、那覇-石垣島線も航空券が取れなかったので、宮古島と同じように、那覇から船で向かう人も多かったようです。
 船では、18時間かかりました。

 那覇を起点に、1泊2日で石垣島を廻るのがモデルコースで、交通費の概算は1万9800円(飛行機利用)と紹介されています。

 宮古島と同様、島内の移動手段は、バスかタクシーです。


 石垣島の観光スポットは、宮良殿内(みやらどぅんち)、桃林寺、フサキ観音堂、御神崎、川平公園、米原熱帯原生林、玉取崎展望台などです。
 
 川平湾のグラスボートなどはありませんでした。ただ、バンナ岳のバンナスカイラインは既に開通していたので、タクシーで展望するコースは人気だったようです。

 起伏に富んだ海岸線の眺めは魅力的でした。一方、ビーチとして紹介されている場所はなかったようです。


 宿は、宮平観光ホテル(現ホテルミヤヒラ)ほか数件あり、ほとんどが市役所通りの北側の旧市街地にありました。
 ミヤヒラ以外は、再開発により、今はほとんど姿を消しています。

 食事に関しては、当時、「石垣島は中華料理が美味い」と紹介されていたようですが、詳細は分かりません。


竹富島観光

 石垣港から船で30分、ホバークラフトなら5分という道程だったため、竹富島まで足を伸ばす観光客も、少なからず居たようです。

 当時も、沖縄らしい美しい街並みが見所でした。なごみの塔も既にありました。海では、星砂の浜(カイジ浜)で星砂が拾えると紹介されています。


 水牛車も貸し自転車もなかったので、基本歩いて移動しましたが、面白いのは、トラックがタクシー代わりに使われていたそうです。

 トラックが来たら、手を挙げて「コンドイ浜まで」なんて言ったら、荷台に乗せて連れていってもらえたのでしょうか。楽しそうです。

 宿や食堂があったかどうかは分かりません。


西表島観光

 西表島は、観光地としては全く無名の島でしたが、沖縄一の秘境の島ということで、研究者や自然愛好家には名の知られている場所でした。

 一般の観光客は、島に渡ってみても、港周辺以外には行ける場所はあまりなかったようです。

 竹富島、西表島以外の島は、観光的には未開だったようです。
 


与那国島観光

 日本で一番外国に近い島ということで、関心は高かったそうですが、何しろ、空路は便が少ないし、海路は海が荒れるし、ということで、ハードルの高い観光地でした。
 それでも、1972年に数百人の人が島を観光したようです。

 見所は、ティンダハナタ、サンニヌダイ(軍艦島)などです。

 那覇を起点に、石垣島経由4泊5日で竹富島、西表島も併せて廻るモデルコースで、交通費の概算は4万1000円(飛行機利用)と紹介されています。

 日本ではここにしか生息しない、世界最大の蛾ヨナグニサンの標本が、土産物として売られていたのは驚きです。 




 50年前の宮古・八重山は、人が少なく自然は豊かで、海に行けば見渡す限りの砂浜が広がり、視界にはホテルも橋も駐車場もなく、海中を覗けば美しい珊瑚礁が。

 あの頃の前浜やコンドイ浜は、どんなに静かで美しかったのだろうか。そう考えると、当時にタイムスリップしてみたくなります。




 復帰50周年で、沖縄は基より、全国のマスコミがこの問題を特集しています。

 それらは、まあ全てとはいいませんが大部分は、基地を抱えて大変な沖縄、歴史に翻弄されて気の毒な沖縄、今なお本土に及ばない沖縄、それでも健気に頑張る沖縄といったように、どうも上から目線で、色眼鏡で沖縄を報じているように感じるのです。

 あらかじめ決まっているストーリーに沿って、撮影をしインタビューをする。そんな感じがしてならないのです。

 それは、制作者が沖縄のことをよく知らないし、思い込みで沖縄を語ろうとする、だから、沖縄に対するリスペクトも感じられないし、自分達とは一線を画す何処かよそ行きで、ワンパターンな報道になるのだろうと思います。


 基地があって、豊かな自然があって、賃金が安くて、政府からの巨額な補助金や交付金があって、若い人が多く移住者も多くて、活気があって、人間関係が難しくて、先祖を崇拝する信仰心に厚くて、利権や既得権益を守ろうとする人がいて、島の風土や文化を大事にする人がいる。

 そんな色々なものが全て混じり合ったのが、今の沖縄です。50年前の今日は、元居た場所に帰るために列車を乗り換えた、そんな日だと思うのです。 
 
 


 もしどこでもドアがあったら、ちょっとあの日の竹富島辺りにでも行って、蒸し暑い中、本土復帰を祝って一緒に乾杯したいな、なんて思います。

 



 
 日本の旅沖縄(山田書院)のほか、Wikipedia、宮古毎日新聞、沖縄県HP、石垣市HP、宮古島市HP、多良間村HP、goo天気、沖縄公文書館HPその他を参考にしました。


 新着記事は、Twitter と Facebookでお知らせしています。

 スマホの方は、「ウェブ バージョンを表示」をタップすると各種機能が使えます。

 

2022年5月10日火曜日

宮古島東海岸のワンポイント 浦底漁港




 最新の技術で、海面に模様を描くことができるようになりました。

 というのは、つまらん冗談です。これは、養殖のための施設です。ここは、宮古島の東側にある浦底漁港です。





 三角形の宮古島の北端である世渡崎(せとざき)から、南東端の名勝東平安名崎までは、県道83号線などを通って約35㎞。

 海沿いを走るこの道は、狭い宮古島にあって、ロングドライブが楽しめる道程です。

 通行する車も少なく、快適ドライブが楽しめるのですが、海沿いを走っているにも拘わらず、全くと言っていいほど海が見えません。


 途中唯一、駐車場がある比嘉ロードパークからはこんな眺めが。



 比嘉ロードパークからの眺めは素晴らしいのですが、ここは、高台から海を見下ろすだけ。

 もっと身近に海を見たければ、敢えて県道から横道に逸れて行く必要があります。


 しかし、島の東側一帯は高台となっていて、県道も海に近い割には高いところを走っています。
 海とはそれなりの高低差があり、どこからでも海に出られる訳ではありません。

 ただ、漁港がある場所では、そこに向かうための道路が整備されています。それを利用すれば、簡単に海にアクセスすることができます。
 
 そんな場所が、真謝漁港、高野漁港、そして今回ご紹介する浦底漁港です。





 港の海が美しい、というのは当ブログでずっと言い続けていることですが、ここも例外ではなく美しい海が堪能できます。

 港ですから、車を駐めるスペースは十分にあり、無名のポイント故、他の観光客と遭遇する確率は、限りなくゼロです。




 ここの凄い所は、防波堤や消波ブロックの隙間に結構大きな木が生えていること。

 タコノキがここまで成長するのにどのくらいかかるのでしょうか。どこに根を下ろしているのでしょうか。


 写真を撮るには、木が生えている方が、絵になっていいのですが。



 自然が豊かな防波堤!? じゃ本当はまずいと思うのですが、まあ、そこは突っ込まないことに。笑



 でも、海は綺麗です。無名のポイントですが、さすが宮古の海。




 宮古島には、オールジャパンでもトップクラスの美しい海があるのに、なんでわざわざそんな所まで行くのかと問われると、答えに窮するのですが、前浜や、17ENDに飽きちゃったからというわけではありません。

 ここはここでいいのです。


 それに、ひねくれた感情ですが、宮古島にまたクルーズ船の団体が復活し、一方で、高級リゾートホテルに泊まるセレブが溢れるようになったとしても、人知れず静かな海をキープしておきたい、なんて気持ちもありまして。





 新着記事は、Twitter と Facebookでお知らせしています。

 スマホの方は、「ウェブ バージョンを表示」をタップすると各種機能が使えます。 


2022年5月7日土曜日

伊江島のタッチュー(城山)に登ったのに・・・ 泣

 


 遠くからでも目立つ山。

 沖縄本島北部、本部半島の先に浮かぶ伊江島の城山(ぐすくやま)。タッチューです。

 古くから航海の際の目印とされてきたそうで、島では信仰の対象でもあります。
 せっかく伊江島に来たからには、その城山に登らなければ。




 標高は172㍍。まあ、楽勝とまでは言わないにしても、これくらいならね。というわけで出発します。



 と思ったのですが、結構急な石段が続き、息が上がります。こんなはずじゃなかった。

 途中、人とすれ違うと、お互い慌ててマスクを付け直すのは今風で笑えます。



 やっとの思いで辿り着いた山頂からは、360度の絶景が臨めるはず。



 曇りじゃん(泣)




 歩いている途中は、木々に覆われてよく見えないし、途中日も刺してきたので期待してたんすけどぉ~



 山頂には、白っぽい岩石が露出しています。城山は、チャートと呼ばれる堆積岩からできています。

 チャート(角岩)とは、主成分の二酸化ケイ素を持つ放散虫・海綿動物などの動物の殻や骨片が海底に堆積してできた岩石で、非常に硬く層状をなすことが多いそうです。

 




 はぁ~ まあ、島に着いたときから曇りっぽい天気だったし、まあこんなものか。

 いや、これくらいの天気でちょうど良かったです。晴れていたら、暑くて暑くて・・・
 負け惜しみですけれど。
 



 さて、話変わって、城山の中腹には、駐車場と展望台、売店があります。場違いなほど、立派な施設です。防衛省の補助事業によって建てられました。
 伊江島には、アメリカ軍が駐留しているためです。




 伊江港の立派なターミナル。これも、国費により建設されました。何と24億円だとか。


 フェリーには、軍用車両も積まれていました。



 伊江島にある施設は、補助飛行場。舗装されていない滑走路です。駐留するのは、アメリカ海兵隊作戦支援分遣隊です。
 ベトナム戦争の時代には、爆撃射程訓練が行われたりしたそうですが、さすがに今はありません。

 タッチューとは、先の尖っているものという意味で、島外でそう呼ばれていたそうですが、伊江島では城山(ぐすくやま)が昔からの呼び名です。
 宮古・八重山ではあまり感じない米軍の影ですが、本島周辺離島ともなると、事情は複雑です。
 まあ、それはともかく、伊江島の城山は、確かに、遠くから見たら尖っていて、間近で見ると城のようにそびえ立つ山です。今度こそ、晴れた日に!



 新着記事は、Twitter と Facebookでお知らせしています。

 スマホの方は、「ウェブ バージョンを表示」をタップすると各種機能が使えます。