1972年(昭和47年)5月15日
宮古島地方の天候は雨 最高気温は25.3℃
石垣島地方の天候は雨 最高気温は25.5℃
50年前の今日、アメリカの統治下だった沖縄は、日本に復帰しました。そして50年前の今日から、パスポートなしで沖縄に行けるようになったのです。
もし、あの日、あのころの宮古・八重山にタイムスリップできたらと妄想しながら、復帰50周年を祝いたいと思います。
50年前の宮古諸島
宮古島
1972年当時、宮古島は平良市、城辺町、上野村、下地町の1市2町1村からなっていました。
人口は、1市2町1村の合計(他島含む)で5万7000人程でした(現在の宮古島市は約5万2000人)。
当時、若者の沖縄本島流出が、社会問題になっていました。
池間島
平良市の一部でしたが、平良港から1日1便出港する船か、狩俣からの小型の渡し船で行き来しなければなりませんでした。人口は2300人程でした(現在は600人弱)。
漁業の島でした。
大神島
平良市の一部でした。人口は200人程でした(現在は約20人)。
あの小さく平地の少ない島に200人も人が居たとは信じられませんが、産業等詳しいことは分かりません。
来間島
下地町の一部でした。前浜港と来間港を結ぶ船で宮古島と行き来しました。人口は540人程でした(現在は約150人)。
半農半漁の、自給自足に近い生活を送っていました。
伊良部島
当時は、伊良部村でした。人口は1万2000人程でした(現在は約5000人)。
漁業のほか、農業も盛んでした。宮古島からは、かなり独立して生活が営まれていたようです。
下地島
伊良部島と共に伊良部村に属していました。人口は僅かでした。あの下地島空港は、復帰直前の1972年4月に着工しました。
多良間島
当時から1島1村で、人口はよく分かりませんが、2300人から3500人の間でした(現在は約1300人)。島の基幹産業は農業で、主力はサトウキビです。
50年前の八重山諸島
石垣島
当時から1島1市で、人口は3万5000人程でした(現在は約4万7000人)。
昔から八重山の中心地であって、竹富町役場が石垣島にあるのは、当時から変わりありません。
八重山郡竹富町の島々
竹富島
人口は、400人程でした(現在もほぼ同じ)。産業がなく、若者が石垣島に出てしまうことから、当時としては珍しい高齢化の進んだ島で、人口の4分の1が70歳以上でした。
黒島
人口は720人程でした(現在は約220人)。産業は、漁業と、西表島まで遠征して行う稲作でした。
新城島(パナリ)
人口は約100人程でした。現在の人口が、住民票では10人程度、実際に住んでいる人は居るか居ないか、というくらいですから、100人は驚異的です。
今はない、石垣島からの船便もありました。
小浜島
人口は870人程でした(現在は約720人)。周辺離島と比べ、土地が肥沃であったことから農業の島でした。
西表島
人口は3500人程でした(現在は約2400人)。東部の中心市街は古見、西部は祖内でした。稲作が広く行われていました。
東部と西部を行き来する道路がなく、石垣島経由で船で行くしかありませんでした。
鳩間島
人口は200人程でした(現在は約50人)。あの小さな島に200人も居たのは驚きです。石垣島からの船は、不定期便でした。
波照間島
人口はよく分かりませんが、1000人程だと思います(現在は約500人)。産業もよく分かりませんが、サトウキビ栽培は間違いなく行われていました。
石垣島からは、船で約4時間もかかりました。
与那国島
当時から八重山郡与那国町で、人口は4000人程でした(現在は約1600人)。
渡難(どなん)と呼ばれたほどの孤島ですが、空港が出き、石垣島とを結ぶ空路がありました。しかし、運賃は、那覇-宮古島線よりも高価だったといわれています。
50年前の航空路線
1968年に発足した南西航空(現JTA)が、那覇-宮古島・那覇-石垣島・石垣島-与那国島・石垣島-宮古島の各路線を、3機のYS-11で結んでいました。
YS-11型機は、それぞれ「あだん」「ゆうな」「ばしょう」と名付けられていました。
(当時は飛行機が少なかったため、飛行機1機1機に愛称が付けられていました。有名なのは、日本航空の「よど号」でしょう。)
所要時間は、宮古島までは1時間5分、石垣島までが1時間30分でした。
正確な運賃がどうしても調べられなかったのですが、復帰直前の運賃が、那覇-宮古島が大人片道で11㌦98セントだったので、1㌦360円としておよそ4000円程度、同様に、那覇-石垣島が6000円程度だったみたいです。
はがきが10円、国鉄(現JR)の初乗り運賃が30円の時代でしたが、意外に安いようにも感じます。
多良間島へは、宮古島から沖縄航空のエアタクシー(不定期貸し切り運送)の空路がありました。
注:沖縄航空は、おそらくは、沖縄旅行社(現沖縄ツーリスト)の関連会社だと思います。
当時の航空券は、島在住者に優先購入枠があったので、観光客が買うのは大変だったそうです。
(coralway2013年清明号より)
50年前の海上交通
宮古では、はやて海運(後のはやて)、伊良部海運(後の宮古フェリー)が、宮古島の平良港と伊良部島の佐良浜港を結んでいました。
多良間島へは、宮古島の平良港から、基本2日で1往復の船便が運航されていました。
遅くとも、1983年には、多良間村が出資する多良間海運によって運航されていますが、1972年当時がそうだったか、分かりませんでした。
池間島、大神島、来間島への航路については、調べられませんでした。
八重山では、この年に複数の船会社を統合する形で誕生した八重山観光フェリーと、復帰を見込んで1970年に発足した安栄観光が、石垣島と周辺離島を結ぶ航路を担っていました。
また、波照間航路に関しては、この年に設立された波照間海運が担っていました。
特筆すべきは、八重山観光フェリーが、なんと2隻のホバークラフト船を運航していたことです。
今の高速船よりも早かったのですが、10年ほどで廃止となりました。
ホバークラフト船の運賃は、石垣島-大原(西表島)間で片道640円でした。
注:ホバークラフトは、当時全国各地に導入されましたが、燃費が悪いことなどから淘汰されました。
50年前の宮古・八重山観光
1972年の入域観光客数は、宮古島が3万2608人、石垣島が3万6863人(推計値)だそうです。
この当時、既にこれだけの人が宮古・八重山を観光していたということは、驚きです。沖縄県全体でも約56万人でしたから、沖縄旅行者の1割以上の人が、先島観光に行っていたことになります。
宮古島観光
那覇で飛行機を乗り継いで、宮古飛行場に向かいます。
しかし、当時、那覇-宮古島線は航空券がなかなか取れなかったので、那覇から船で向かう人も多かったようです。
船では、12時間かかりました。
那覇を起点に、1泊2日のモデルコースで、交通費の概算は1万9400円(飛行機利用)と紹介されています。
島に着いてからは、バスかタクシーで移動します。レンタカーはないか、あっても観光客が借りられるものはありません。
名の知れたビーチは、ぱいながま、砂山、前浜でしたが、当時、遙々宮古島まで来て泳ぐという人はほとんどいなかったようです。
ちょっともったいない感じもしますね。
シュノーケリングでもしてみたら、どんなに綺麗だったでしょう。もちろん、ダイビングショップなどもありません。
島一番の景観地は、東平安名崎ですが、市街地から遠く、行くのは大変だったようです。
それ以外の見所は、仲宗根豊見の墓、人頭税石、久松五勇士顕彰碑、ドイツ皇帝博愛記念碑、平良市亜熱帯植物園、ムイガー、西平安名崎、伊良部島の佐和田の浜などです。
市街地を一歩離れると、見渡す限りサトウキビ畑が広がっていました。
伊良部島以外の島に行く人はほとんどおらず、観光的な見所もありませんでした。
宿は、日の丸旅館(現ホテル共和)ほか数件あり、ほとんどが西里通り周辺にありました。リゾートホテルはありません。
食事は、レストランのむらが当時から有名でした。
島エビ(多分伊勢エビのことだと思います)料理がウリで、パパイヤの煮付けとニガウリ炒めが、内地からの観光客を驚かせていました。
土産物としては、宮古上布の織物が最上級品でした。
石垣島観光
那覇で飛行機を乗り継いで、旧石垣空港に向かいます。
当時、那覇-石垣島線も航空券が取れなかったので、宮古島と同じように、那覇から船で向かう人も多かったようです。
船では、18時間かかりました。
那覇を起点に、1泊2日で石垣島を廻るのがモデルコースで、交通費の概算は1万9800円(飛行機利用)と紹介されています。
宮古島と同様、島内の移動手段は、バスかタクシーです。
石垣島の観光スポットは、宮良殿内(みやらどぅんち)、桃林寺、フサキ観音堂、御神崎、川平公園、米原熱帯原生林、玉取崎展望台などです。
川平湾のグラスボートなどはありませんでした。ただ、バンナ岳のバンナスカイラインは既に開通していたので、タクシーで展望するコースは人気だったようです。
起伏に富んだ海岸線の眺めは魅力的でした。一方、ビーチとして紹介されている場所はなかったようです。
宿は、宮平観光ホテル(現ホテルミヤヒラ)ほか数件あり、ほとんどが市役所通りの北側の旧市街地にありました。
ミヤヒラ以外は、再開発により、今はほとんど姿を消しています。
食事に関しては、当時、「石垣島は中華料理が美味い」と紹介されていたようですが、詳細は分かりません。
竹富島観光
石垣港から船で30分、ホバークラフトなら5分という道程だったため、竹富島まで足を伸ばす観光客も、少なからず居たようです。
当時も、沖縄らしい美しい街並みが見所でした。なごみの塔も既にありました。海では、星砂の浜(カイジ浜)で星砂が拾えると紹介されています。
水牛車も貸し自転車もなかったので、基本歩いて移動しましたが、面白いのは、トラックがタクシー代わりに使われていたそうです。
トラックが来たら、手を挙げて「コンドイ浜まで」なんて言ったら、荷台に乗せて連れていってもらえたのでしょうか。楽しそうです。
宿や食堂があったかどうかは分かりません。
西表島観光
西表島は、観光地としては全く無名の島でしたが、沖縄一の秘境の島ということで、研究者や自然愛好家には名の知られている場所でした。
一般の観光客は、島に渡ってみても、港周辺以外には行ける場所はあまりなかったようです。
竹富島、西表島以外の島は、観光的には未開だったようです。
与那国島観光
日本で一番外国に近い島ということで、関心は高かったそうですが、何しろ、空路は便が少ないし、海路は海が荒れるし、ということで、ハードルの高い観光地でした。
それでも、1972年に数百人の人が島を観光したようです。
見所は、ティンダハナタ、サンニヌダイ(軍艦島)などです。
那覇を起点に、石垣島経由4泊5日で竹富島、西表島も併せて廻るモデルコースで、交通費の概算は4万1000円(飛行機利用)と紹介されています。
日本ではここにしか生息しない、世界最大の蛾ヨナグニサンの標本が、土産物として売られていたのは驚きです。
50年前の宮古・八重山は、人が少なく自然は豊かで、海に行けば見渡す限りの砂浜が広がり、視界にはホテルも橋も駐車場もなく、海中を覗けば美しい珊瑚礁が。
あの頃の前浜やコンドイ浜は、どんなに静かで美しかったのだろうか。そう考えると、当時にタイムスリップしてみたくなります。
復帰50周年で、沖縄は基より、全国のマスコミがこの問題を特集しています。
それらは、まあ全てとはいいませんが大部分は、基地を抱えて大変な沖縄、歴史に翻弄されて気の毒な沖縄、今なお本土に及ばない沖縄、それでも健気に頑張る沖縄といったように、どうも上から目線で、色眼鏡で沖縄を報じているように感じるのです。
あらかじめ決まっているストーリーに沿って、撮影をしインタビューをする。そんな感じがしてならないのです。
それは、制作者が沖縄のことをよく知らないし、思い込みで沖縄を語ろうとする、だから、沖縄に対するリスペクトも感じられないし、自分達とは一線を画す何処かよそ行きで、ワンパターンな報道になるのだろうと思います。
基地があって、豊かな自然があって、賃金が安くて、政府からの巨額な補助金や交付金があって、若い人が多く移住者も多くて、活気があって、人間関係が難しくて、先祖を崇拝する信仰心に厚くて、利権や既得権益を守ろうとする人がいて、島の風土や文化を大事にする人がいる。
そんな色々なものが全て混じり合ったのが、今の沖縄です。50年前の今日は、元居た場所に帰るために列車を乗り換えた、そんな日だと思うのです。
もしどこでもドアがあったら、ちょっとあの日の竹富島辺りにでも行って、蒸し暑い中、本土復帰を祝って一緒に乾杯したいな、なんて思います。
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日本の旅沖縄(山田書院)のほか、Wikipedia、宮古毎日新聞、沖縄県HP、石垣市HP、宮古島市HP、多良間村HP、goo天気、沖縄公文書館HPその他を参考にしました。
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