2021年10月4日月曜日

忘勿石ハテルマシキナ 西表島南風見田の浜2021

 
 

 これでブログ記事777本目になります。ラッキーナンバーっぽいですが、今回は、やや重い話題です。

 西表島の南風見田(はえみだ)の浜です。南風見田の浜については、以前にもご紹介しましたが、今回は、新たに撮った写真と共に近況をお伝えします。




 南風見田の浜は、西表島の南側に広がるビーチです。

 何処から何処までを南風見田の浜というのかよく分かりませんが、干潮時なら、歩いて行ける砂浜が数㎞続きます。

 遠浅の穏やかな海ですが、シュノーケリングには適さないようで、泳ぐどころか、この地に足を踏み入れる観光客は滅多に見かけません。





 南風見田の浜に行くには、島の外周道路(県道)を南西方向に終点まで進み、更にその先の道を車で行けるところまで行くと、2~3台車を駐めるスペースがあるので、そこに車を駐めて、最後数十㍍歩きます。


 ところが、数年ぶりに行ったらこんなことになっていました。

 何処かの島のようにコロナのため閉鎖なのかと思いましたが、そうではなく「イノシシの侵入を防ぐため」とのこと。
 「開けたら閉めて」と書かれていましたから、開けて入ってもいいようですが、一旦ここは退散することに。



 その数百㍍手前(東側)には、新しい入り口と、こんなに広い駐車場が整備されていました。ビックリ!



 海への入り口には、「忘勿石(わすれないし)入り口」とあります。




 整備された階段路を3分ほど歩くと、忘勿石に到着します。



 これは、戦争マラリアの犠牲者を慰霊する「忘勿石之碑」です。
 

 太平洋戦争末期、旧日本軍は、八重山の島々に離島残置工作員を派遣します。

 離島残置工作員とは、アメリカ軍の上陸に対抗するため、現地住民を組織してゲリラ戦を指揮するために配属された、陸軍中野学校出身の工作員で、波照間島に派遣されたのは、山下虎雄と名乗っていた人物です。

 山下は、波照間島の島民(当時約1600人)を、西表島のこの地に強制的に疎開させます。

 波照間島と西表島とは距離は近いのですが、生態系が全く異なります。

 ジャングルだらけの西表島には、マラリアを媒介する蚊がとても多く、それに対し、平坦な地で生まれ育った波照間島の人達は全く免疫がなかったため、次々とマラリアに罹り、3人に1人が命を落としたとされます。




 波照間国民学校の校長であった識名信升(しきなしんしょう)は、終戦後波照間島へ引き揚げる際に、戦争マラリアの犠牲者を悼んで、岩に「忘勿石 ハテルマ シキナ」と刻みました。

 それから40年以上が経過した1992年、波照間島を臨むこの地に、戦争マラリアの犠牲者を慰霊する「忘勿石之碑(ハテルマシキナの碑)」が建設されたのです。


 ここは、識名先生が生徒を集めて青空教室を開いていた場所だそうです。
 南風見田の浜は、観光地としては地味なビーチですが、重い歴史を背負っていました。





 忘勿石之碑は、広い南風見田の浜の一画にあります。数年前に台風で大破し、修繕中と聞いていましたが、駐車場や連絡路まで立派に整備されました。


 南風見田の浜の旧入り口は、ここより数百㍍西にあり、碑の東側にもビーチが続いています。普段は、遠浅の穏やかな海です。

 島の南端であり、この海の先には、波照間島しかありません。


 西表島にやって来る観光客の大半は、ダイビングやシュノーケリング、カヤックやトレッキングなどのアクティビティを目的としています。
 それは、西表島が自然の宝庫であるということでもありますが、その一方で、アクティビティに適さない南風見田の浜は、観光客にはあまり注目されないようです。



 識名先生は、いつも波照間島の方向を見詰めています。



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