2024年8月29日木曜日

竹富島発祥の地 でも誰も行かない新里村遺跡

 


 あの小さな竹富島には、むかし、いくつもの村がありました。

 一番最初に出来たのが、新里(しんざと)村です。今そこに集落はなく、遺跡として細々と保存されています。

 多いときでは、年間50万人もの観光客が押し寄せる竹富島ですが、港から徒歩で5分ほどのこの場所にやって来る観光客は、まずいません。




 「アバ石のあるところを掘れば甘水が出る」。竹富島では、古くからそう言い伝えられています。

 アバ石とは、チャート(角岩)のことで、非常に堅い岩石です。竹富島は、隆起珊瑚の島で、大部分は多孔質で柔らかい琉球石灰岩で出来ています。

 その堅いアバ石の上に降った雨は、アバ石には染みこまず周辺に流れる訳ですが、アバ石の周りが多孔質で浸透性の高い琉球石灰岩であれば、そこには水が貯まるから、掘ってみれば水が出る、ということなのだそうです。


  かつては井戸を中心に集落ができたとされており、新里村遺跡の発見により、新里村が竹富島の発祥地ということが明らかになりました。 

 ここにはかつて、花城井戸(ハナクンガー)という井戸があり、12世紀頃から井戸を中心にして、村が栄えたということです。

 内地では、平安時代から鎌倉時代といった時代です。



 この白くて、いかにも堅そうなのが、新里村のアバ石です。 
 



 竹富島には、六山(むーやま)という、特に重要だとされる御獄(うたき。竹富島では、おんと言います。)があります。

 18世紀に編纂された琉球国由来記によれば、六山に祀られる神々は、それぞれの部族の酋長6人によって、本島・久米島・徳之島・屋久島から分神したと記されています。

 この六山の存在から、竹富島は、本島・久米島・徳之島・屋久島からやって来た人々により形造られたと考えられ、同時に、粟・麦・豆も伝来したとか。

 そしてその部族の集落が、今の、東(あいのた)・西(いんのた)、仲筋(なーじ)の各集落に繋がったと考えられるそうです。


 その全ての始まりは新里村からです。

 遺跡からは、稲作や麦作の痕跡も見つかったそうです。隆起珊瑚の島は農業には適しませんが、先人達はそれを克服しようとしたのでしょうか。




 海の向こうは石垣島です。新里村の人達は、毎日こんな海を、そして大きな石垣島眺めていたのでしょう。




 歴史的には貴重な遺跡でも、観光地としては超絶地味です。竹富島として誰もがイメージする、花咲乱れる伝統集落とは打って変わって、何もない場所です。

 島の有志によって、かろうじて草刈り等の手入れがなされ、現状が維持されていますが、観光名所とはほど遠いものです。

 
 しかしながら、竹富島に多少なりとも愛着があるならば、この場に立ち、この光景を目に焼き付けてから、ネットなどで島の歴史を辿るのも悪くないと思うのですが。

 


 竹富島には八重山諸島を統括した蔵元(行政府)もありました。祭りなどの伝統行事の多さでも、八重山の中でずば抜けています。

 それにしても何故、こんな小さな農業にも適さない島に人が集まり、歴史を刻んだのでしょうか。


 石垣島に近かったからでしょうか。平坦だったからでしょうか。それとも、井戸水があったからでしょうか。





 八重山諸島の考古学(石垣市教育委員会)を参考にしました。


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2024年8月26日月曜日

夏なのに台風が沖縄でなく本州に

 


 今年の暑さは災害級、などと言われ、異常気象が取りざたされていますが、異常なのは気温だけではなく、台風の動きも何だか変なのです。


 8月の入ってから、次々と発生する台風は、台風銀座の沖縄をかすりもせずに本州へ直行します。

 一方の沖縄では、台風らしい台風は、7月下旬に一度来ただけ。一体どうなっちゃているの?


(気象庁HP)


 沖縄では、7月下旬に台風3号が先島諸島に接近し、宮古空港、石垣空港などで24日を中心に多くの便が欠航しました。

 7月下旬で台風3号というのも、台風沖縄初接近というのも、例年より遅いペースです。

 今年の沖縄は、梅雨明け以降(宮古・八重山では気象庁の梅雨明け発表より前から)、晴れが続き、観光客は良いけれど、島では水不足が懸念されるほどでした。


 台風3号が去ってから再び晴れ続きかと思いきや、宮古島や石垣島では雨が降ったり止んだりの冴えない天気が続きます。

 このころ、宮古島付近には低気圧にも認定されない弱い寒冷渦と思われる気圧の低い部分が、反時計回りに渦を巻きながら居座り続けました。

 それが、その場で突如として台風になって、ようやく北に去って行くという、いかにもイレギュラーといった気象現象が起きていたのです。


(気象庁)


 一方、本州付近には、8月だというのに次々と台風が接近します。

 5号6号7号8号と本州付近をうろつき、そして今また、10号が日本列島を横断しようかという動きです。

 
(tenki.jp)


 例年夏になると、太平洋高気圧がど~んと張り出し、台風はその縁を回って北上するので、沖縄や台湾、フィリピン辺りが台風銀座になります。

 9月、10月になると太平洋高気圧の張り出しが弱くなり、台風はそのまま北上するようになるのです。

 下が、典型的な台風の経路ですが、今年は全然典型的ではないのです。

(気象庁)


 いや、今年は太平洋高気圧の張り出しが弱く、雨の多い冷夏だとでもいうのなら、まだ話は分かります。
 ですが、8月に関しては、最高気温が沖縄より高かった地点が、日本中で目白押しだったはず。


 もう勘弁してくださいよ~




 沖縄で雨に降られたら何をするか、かなり以前に当ブログでも取り上げましたが、要は雨に降られるとほとんどやることがないというのが結論です。

 しかし、ググってみると、雨でも十分楽しめる的な記事が多く、まあ、これは昔から変わらない傾向ですが、驚いたのは、ダイビング・シュノーケリングを勧める記事が結構あるのです。

 どうせ濡れるんだから同じだろう、という趣旨のようです。


 ダイビングに関しては経験がないのでコメントできませんが、シュノーケリングについては、水温は下がるだろうし、風も吹けば場合によっては危険なこともあります。

 少なくとも、雨の日でも「楽しめる」メニューとは言い難いと思うのですが。


 沖縄の、特に離島は晴れてナンボの世界です。せめて9月以降はちゃんと晴れて、台風もほどほどにが来てもらいたいもので。







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2024年8月22日木曜日

神秘の池? 魔性の島? 下地島の通り池伝説




 下地島の名勝、ビュースポットの通り池。

 沖縄らしいコーラルブルーとまったく違った、紺碧の海。海?そう、ここは池ではなく海の一部なのです。


 そんな通り池には、伝説があります。

 それも、口伝・言い伝えの類いではなく、宮古島の歴史的文書に登場したり、民俗学的にも重要な話かも知れなかったりと、なかなか興味深いものがあります。

 そこで今回は、通り池、そして下地島にまつわる伝説をご紹介します。
 ミステリアスで、しかもアカデミックかも知れない、通り池伝説の世界へようこそ。




 「宮古島記事仕次(みやこじまきじしつぎ)」には、次のような話が載っています。
 
 昔、今の通り池がある辺りには、下地という村があった。あるとき村の漁師が「ヨナタマ」という魚を釣った。この魚は、人のような顔をもった魚で、よくものを言う(話す)魚だと伝えられていた。漁師は、珍しいので人に見せようと思い、炭火をおこして炙って乾かしていた。

 その夜遅く、隣家に母親と一緒に泊まっていた子供が急に大声で泣き出し、伊良部村に帰りたいと言い出した。夜中だったので、母親は何とかなだめようとしたが、子供は泣き止むどころか一層激しく泣き叫んだ。母親が仕方なく子供を抱いて外へ出ると、子供は母親にしっかりとしがみついて震えている。

 母親はどうしたものかと怪訝に思っていると、どこからか「ヨナタマ、ヨナタマ、どうして帰りが遅いのか」という大きな声が聞こえてきた。ヨナタマは「私は今、炭火の上に乗せられて半夜も乾かされています。早く迎えをよこしてください」と答えた。母子は身の毛がよだち、急いで伊良部村に向かった。

 翌朝、母子が下地村に戻ろうとすると、村は一夜のうちに大津波に洗いつくされて、跡形もなくなっていた。
 母子だけはどういうご利益があったのか、災難を免れたというお話。


 「宮古島記事仕次」とは、1748年に編纂された 、宮古島旧記類の一つです。旧記とは、先人が書き残した宮古島に関する史料をまとめたもので、この本には、島始神託に始まり、宮古の神話・伝承などがまとめられています。


 民俗学者の柳田國男は、自身の著作の中で「ヨナタマ(海霊)」としてこの話を取り上げています。

 「ヨナタマは、沖繩だけでなく、本土でも形を変えて伝わっているが、沖繩では昔からこの話が、大津波に結びついて残っている。本島にも、来間島にも残っているが、この話が一番有名である。」

 「ヨナタマの罰を受けて村中が流されてしまったというのは、ヨナタマは海霊(であり)、海の神の罰を受けたということで、このヨナタマから『ヨナ』が海という言葉と同じではなかろうかと思うのである。」と結んでいます。


 そう言われてみると沖縄には、与那嶺、与那国、与那原といった「ヨナ」のつく地名が多く、宮古島の与那覇地区は、ヨナタマ伝説があるとされる来間島の対岸に位置します。



 この話のバリエーションと思われる別の伝説では、漁師が人魚を捕まえて、小屋に閉じ込めておいたところ、人魚から助けを求められた海帝が、岩に穴を開けて人魚を逃がし、それが今の通り池になった、というものがあります。




 続いては、「雍正旧記(ようぜいゆうき)」に記されたものです。

 昔、下地村に住んでいた漁師が妻に先立たれ、後妻を迎えた。漁師には子供がいたが、親子は仲良く暮らしていた。しかし、夫婦に子供が生まれると、妻は先妻の継子である兄を疎ましく思うようになった。

 ある日、男が漁に出かけると、妻は二人の子供を連れて通り池に行き、兄を池の端に寝かせ、寝入ったら池に落とそうと企てた。妻は、継子の兄を滑りやすいつるつるとした岩場に、実子の弟をごつごつとした岩場に寝かせた。

 妻は、夜中につるつるとした岩場に寝ていた子を通り池に突き落とすと、残った子を背負って一目散に家へと走り出した。すると、背中の子がこう尋ねた。「弟はどうしたの。」優しい兄は、岩がごつごつして眠れないという弟と場所を変わってやっていたのだ。

 妻は、知らずに自分の子を池に突き落として殺したことに気づき、自分も通り池に飛び込んで命を絶った。


 雍正旧記は、雍正五年(1727年)、首里王府への各種報告書の控を編纂した記録で、 宮古内の30村の所在地、蔵元からの距離、寺社などの公署、井戸の掘削年・修補年、城跡、御嶽の由来や祭神、役人の人事記録、特産物、港の数、功労者などが記されているそうです。




 実際の通り池は、元々は陸地だったところに、地下から海水が入り込み、その浸食によって大きな穴となり、天井部分が崩落して今の形になったと言われています。

 通り池の名前の由来でもあります。沖縄県指定の天然記念物でもあり、水深は、25mだそうです。

 Google先生の地図を見れば、二つの大きな穴がよく分かります。




 下地島には、キドマリ村という集落があり、16世紀頃から、伊良部島から人が渡って耕作や牧畜を行っていましたが、1771年の明和の大津波で壊滅的打撃を受けて荒れ果て、19世紀の琉球処分の際には、ほぼ全島が国有地とされました。


 今では宮古島と伊良部大橋で結ばれ、宮古島市の一部となった伊良部島ですが、ホンの数十年前までは、多くの人が住む、宮古島とは独立した島でした。

 下地島は、そんな伊良部島の目と鼻の先にあり、平坦で一見農業にも適していますが、度々大津波に襲われ、人が定住するには至らなかったようです。

 ヨナタマの話は、津波に襲われる有様を、子を突き落とした話は、近寄ってはいけない魔性の島だということを、伝えるものだとも言われています。
 真偽のほどは分かりませんが、思わず納得してしまいました。


 時系列的に見れば、どちらの話も、明和の大地震より前ということになりますが、宮古諸島で一番西にある下地島は、以前から度々大津波に襲われてきたそうです。



 通り池の近くにある帯岩です。

 左側に小さく鳥居が写っていますが、この巨大な岩は、明和の大津波で打ち上げられたと伝えられています。
 以前は、それは言い伝えに過ぎないと思っていたのですが、東日本大震災を経験してから、本当かも知れないと思うようになりました。




 今下地島といえば、真っ先に思い浮かぶのは下地島空港だと思いますが、下地島空港が建設できた理由は、全島国有地で、用地買収の必要がなかったからです。

 そう考えると、世の中複雑ですね。


 17ENDから、通り池、中の島、渡口の浜(下地島側)と絶景が続く下地島ですが、一方では、御獄もなく伝統の祭りもありません。
 それは、ないのではなく、なくなったのかも知れませんね。
 




 この記事は、柳田國男「故郷七十年」、琉球大学デジタルアーカイブ、宮古島市HP、沖縄県地名大辞典などを参考にしました。


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2024年8月17日土曜日

沖縄のアイドル ウミガメに関する不都合な真実

 


 沖縄に行ってウミガメと一緒に泳ぐ。なんだかワクワクしますよね。


 現地でもらえるフリーペーパー「ガイドブック宮古島」には、そんな広告が沢山あります。
 ウミガメと並んで泳いでいる写真や、まるでウミガメと一緒に記念撮影をしたかのような写真が載り、ウミガメ遭遇率99%を謳っているショップもあります。


 ウミガメは絶滅の危険があるとして保護されてきました。そんな保護活動が実って、宮古島に限らず沖縄の多くの島で、人が泳ぐような浅瀬に数多くのアオウミガメが生息し、しかも人間はカメを襲わないと学習したらしく、人が近づいても逃げなくなりました。


 今回は、国も地域も観光客も、皆で大事に守ってきたウミガメにまつわる、ちょっと知りたくなかった、不都合な真実をお伝えします。





 2年前の7月14日、久米島の海岸に、約30頭のアオウミガメが瀕死の状態で打ち上げられていました。

 読売新聞が報じたところによれば、「『自分がやった』と名乗り出たのは、久米島漁協所属の刺し網漁師だった。海底に網を張り、引き潮で沖に戻る魚を捕る漁法。漁協の聞き取りに対し、『数頭は逃がしたが、網を外そうとすると暴れた。身の危険を感じ、弱らせて外そうと思った』」と説明した。」とのことでした。


 これに対しては、酷いことをしたという非難の声もあった一方、漁師に同情する声も多く聞かれたそうです。



 ご存じのとおり、ウミガメは保護の対象で、捕獲は規制されています。これは沖縄県に限りません。

 まず、国立公園、国定公園の特別保護地区では、ウミガメの捕獲、卵の採取は禁止されています。
 沖縄県の西表石垣国立公園、沖縄海岸国定公園・慶良間地域においては、特別保護地区より規制の緩い特別地域内でも捕獲・採取が禁止されています。

 また、沖縄県は国立公園区域外でも、漁業法に基づき試験研究のためなどで承認を受けた場合のみ成体の捕獲を認めています。

 そのほか、水産資源保護法、都道府県や市町村独自のウミガメ保護条例で捕獲や卵の採取を禁止しているケースもあり、ウミガメが産卵する海岸への車の乗り入れの自粛、監視員制度、普及啓発施策等といった形での保護を行っている自治体もあります。


 何故ウミガメは、他の魚介類と比べて特別に保護されるのでしょうか。

 理由の一つは、その数が減少しているとされているからです。
 
 環境省の「レッドデータブック」、水産庁の「日本の希少な野生水生生物に関するデータブック」において、ウミガメ各種は絶滅の危険がある生物として掲載されています。


 他に実質的な理由もあります。

 アオウミガメは海草・海藻を食べます。
 海藻が茂り過ぎると藻場は酸素不足、光不足になりますが、それをアオウミガメが間引くことによって、適正な状態が維持されると言われています。

 オサガメはクラゲを食べます。
 クラゲは魚の卵や幼生を食べますが、そのクラゲを食べてくれることで漁業資源が維持されます。

 ウミガメは砂浜で産卵することで海から陸へ栄養を運びます。
 ウミガメは約500個もの卵を産みます。 孵化せず砂の中で死んでしまった卵は、栄養素(窒素、リン、カリウム等)を浜辺の植物に供給する役割があるそうです。




 そんな訳で、ここ2~30年の間保護されてきたウミガメですが、もし、その前提が崩れてしまったらどうでしょうか。


 これも読売新聞が2年前に報じたことですが、西表島など八重山諸島のみに群生するウミショウブが激減しているそうです。

 ウミショウブは、夏に雄花を放出し、それが海面に白いじゅうたんを敷き詰めたように見えるため観光客に人気で、NHKの「ダーウィンが来た!」でも紹介されたことがありました。
 そんな光景が、近年ほとんど見られなくなってしまいました。理由は、アオウミガメによる食害です。同じことを今年、朝日新聞も報じていました。


 ウミショウブが生息する藻場は、魚やイカが生息・産卵するする場所なので、漁業への影響も出ています。

 石垣島周辺では、海草を餌とするアイゴの漁獲量もまた激減しています。アイゴの稚魚の塩漬けは、沖縄料理のスクガラスにもなります。


 では、アオウミガメは増えているのでしょうか。

 ウミガメの研究をしている黒島の黒島研究所によると、黒島周辺海域の生息数が2010年に約200頭だったのに対し、2019年には約400頭に倍増しているそうです。

 国内最大のウミガメの産卵地・小笠原諸島も同様で、小笠原海洋センターによれば、自然孵化した数は、1984年の約5000頭から、2015年には5万頭超まで増えたのだとか。

 そうなると、少なくともアオウミガメに関しては、保護する前提が崩れているように思えます。


 ウミガメが増えたことは、個人的にも実感しています。

 ほぼ毎年行っている黒島ですが、3~4年ほど前から、簡単にウミガメを見つけることができるようになりました。
 伊古桟橋とか、灯台付近に満潮時に行くと、10分も待てばほぼ確実にカメが現れます。

 以前は、偶然見かけると、ラッキーとばかりに夢中になって写真を撮っていたのですが。




 沖縄や小笠原では、古くからアオウミガメを食べる食文化がありましたが、そのための乱獲や産卵地の環境悪化で数を減らしていきました。
 そんな中、1991年に環境省のレッドリストに掲載されたことで、保護の機運が高まります。

 沖縄県では、今でも食用として、年間200頭のアオウミガメの捕獲枠があります。

 しかし、保護が進む中、カメを食べるという食文化自体が衰退し、また、昔は和風旅館などでよく見かけたカメの剥製を飾る習慣もなくなり、誰もカメを獲らなくなったそうです。

 その一方、アオウミガメの天敵であるサメは、マグロやアカマチなどの高級魚を守るために駆除される傾向にあるため、アオウミガメにとって日本の海は、パラダイスになっているのだとか。


 シュノーケリングをしながら近づいてくる観光客は、自分達を捕まえないことを学習したので無視している、というのが実態のようです。


 一部の学識経験者は、捕獲制限を緩めるなどして、適正な数にコントロールする必要があるなどと言い出しており、環境省も、保護対象だったアオウミガメについて、将来的な個体数調整などの可能性を検討しており、その際は、食用として活用することも視野に入れるそうです。


 ちなみに、小笠原では今でもカメ料理が食べられていて、年間100頭ほどのアオウミガメが食用に捕獲されています。





 ウミガメとカクレクマノミは、沖縄でシュノーケリングをする人達にとって、アイドル的存在です。

 ウミガメは保護されてきましたが、現在ほとんど規制のないカクレクマノミが、イソギンチャクごと捕獲され、観賞魚として取引される事例が増えていると言われています。



 皆で大事にウミガメを守ってきた。おかげで数も増えた。人は襲わないということを学習したカメは一緒に泳いでくれるようになった。メデタシメデタシ。

 そう信じたかったのに、現実はシビアです。


 もし、翻訳アプリでカメ語を翻訳できたら、「みんなのおかげでボク達も仲間が増えたよ。お礼に一緒に泳いであげるね。」と口では言いながら、内心では、(ケケッ 人間なんてチョロいもんだぜ)なんて思っているのかも。



 この記事は、読売オンラインのほか、環境省HP、黒島研究所HPなどを参考にしました。


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2024年8月13日火曜日

黒島の穴場のはずだった アサビシバナ2024

 


 間違いなく穴場なんです。だってこの岩場の穴を通過しなければ行けないのだから。




 というくだらない話はともかく、黒島のアサビシバナです。

 アサビシバナ(遊び岩)とは、元々この岩の名前だそうです。かつて、島の若者達がこの岩の上で遊んだとか、悲恋の物語があるとか言われています。

 昭和47年8月30日に竹富町の天然記念物に指定された由緒ある場所です。そしてその先にはとても美しいビーチが隠されていました。




 ここが、アサビシバナのビーチです。広くはないですが。その美しさは、オール沖縄の中でもトップクラスでしょう。
 入り口が入り口ですから、秘境感も漂います。でも、黒島港から徒歩3分の立地です。




 多分、大昔は長く続くビーチの一部だったと思われますが、黒島港や給水施設を守るための防波堤が整備され、その結果、岩穴をくぐらないと行けないこの場所が取り残されたのではないでしょうか。




 おかげで、手付かずの美しい浜が残されました。

 島の人はよく知っている場所で、黒島研究所のウミガメ放流ショーが行われる場所でもあります。




 穴場のはずのビーチに人がいた!

 いや、人がいるといってもホンの2~3人なのですが、でも、観光客がいるなんて驚きです。一体何処で調べて来たのでしょうか。

 (「当ブログの過去記事で見ました」、なんて言ってくれたら、オリオンビール1ダースを贈呈しちゃうかも。笑)
 



 帰りは、反対にこの岩の中をくぐって行かないと娑婆に戻れません。




 穴場といっても、黒島自体が穴場みたいな島で、船も、安栄観光・八重山観光フェリー共各3往復まで減便されていますが、それにでも、便によってはガラガラです。

 穴場じゃない場所に行っても、人は僅かです。シュノーケリングポイントとして有名な仲本海岸も、近年は、泳いでいる人は僅かです。



 嫌みを言う訳ではないですが、1泊 ン万円もするゴージャスなホテルのプライベートプールで遊ぶのも楽しいだろうはと思うのですが、この場所いるときのような、体の芯から涌き出てくる「はぁぁぁ~ ここいいじゃん!」感は味わえるのでしょうか。

 癒やしとか安らぎなどという言葉では言い表しようのない、まさにプライスレスなひとときです。





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2024年8月8日木曜日

宮古島の朝ドラ(イブ)・朝散歩はなかなかよい

 


 宮古島にて。

 早朝、とまでは言えないけれど、朝ご飯前に車で5分ほどの近くのビーチに行ってみました。

 埋立地トゥリバーのビーチです。サンセットビーチとかいう名前もあるように、ここの海岸は、西向きです。

 ということは、朝は背中の方から昇ってくる順光線。日差しが強くなる前の時間帯から海が綺麗に見えるのです。




 影が朝っぽい雰囲気ですね。人の姿もまばらです。



 晴れて太陽が出ても、この時間だとまだそれほど暑くは感じません。ギラギラの太陽になるまでには、少しまだ時間があります。

 泳ぐにはちょっと根性がいりますが、散歩なら快適です。




 こちらは、与那覇地区。朝方に一雨あり、外に出てみると虹が。



 続いてこちらは、前浜です。人が多く集まる場所よりは少し北西側です。

 元々綺麗な海ですが、東側から当たる順光線に照らされてなお一層美しく輝きます。しかも、そんなに早い時間ではなく、朝食を済ませてから行っても間に合うくらいの時間帯です。

 近くに泊まっている人は、1日の始めにまずここを目指して、宮古の海の綺麗さに歓声をa揚げる、なんてどうでしょうか。




 パイナガマビーチです。ここも北西向きなので朝は爽やかな眺めです。

 パイナガマの駐車場は、結構朝早くから混んでいます。十数台は駐められそうなスペースがありますが、ほぼ一杯なんてことも。

 しかも意外にも、観光客ではなく地元の人達がほとんどです。ビーチ周辺で犬の散歩をしたり、人間の散歩をしたりしているようです。



 そんなパイナガマビーチでは、朝も早よから泳いでいる人がいました。

 ロープで囲われたエリアを縦横に満遍なく泳いでいます。管理人とか関係者のようで、人が海に繰り出す前に、実際に泳いで安全を確認しているのでしょうか。

 結構大変作業ですよね。お疲れさまです。




 日本の南西にある沖縄は、日没が遅いですが、日の出も遅い。
 夏至の頃でも、日の出は6時くらい。眠い中、頑張って起きなくても何とかなります。

 しかも、宮古島は、車があれば簡単にアクセスするビーチが多いのです。

 どこの海でも同じですが、西向きビーチならば一足早く太陽光が行き渡るので、太陽がギラギラになる前にひと遊びというのもいいと思います。


 まだ、試したことはないのですが、伊良部大橋は概ね東西に架かっているので、日の出直後に宮古島側からドライブなんていかがでしょうか。





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2024年8月3日土曜日

ブログ12周年 沖縄に行きたくなる写真12連発

 


 ありがとうございます。
 当ブログは、本日で12周年となりました。


 いつもお読みくださり、本当に感謝申し上げます。

 12周年記念は、重いテーマはやめて、写真を見てもらうだけにしました。
 これを見ると、沖縄の特に宮古・八重山に行ってみたくなる(はずの)写真を、12周年に合わせて12点並べました。

 当ブログの原点に戻って、宮古・八重山は、こんなに美しい、こんなに楽しいところだということを知っていただく、あるいは、再認識していただければと思います。

 
 冒頭の写真は、石垣島の川平湾です。川平公園の対岸からの眺めです。





 伊良部島の渡口の浜です。

 細かい白い砂に覆われた広いビーチは、潮の満ち干によって姿を大きく変えます。海の色はもちろん、砂浜の造形も美しい特別な場所です。





 シュノーケリングのアイドル、”ニモ”こと、カクレクマノミとイソギンチャクです。

 沖縄では、至る処で見られる光景ですが、この写真は西表島のイダの浜で撮りました。


 


 伊良部島と下地島を結ぶ乗瀬橋(ぬーしはし)からの眺めです。

 見えているのは下地島側ですが、二つの島は本当に近く、橋から見ると川のように狭く、しかし沖縄らしい美しい海です。






 黒島の集落です。港から続く、車も普通に走る道ですが、こんなことになってました。

 この写真を見て、黒島に行ってみたくなるかどうかは人によると思いますが、それでも、石垣島から30分船に乗れば、こんな非日常のような光景が日常の島があるのです。





 竹富島の集落です。

 もうこの島ではお馴染みの光景ですが、いつも色とりどりの花が咲き乱れています。この花は、ハイビスカスの亜種ですかね。





 宮古島の西浜崎です。

 夕日に向かってSUPをする人達。最近は、日没時に合わせたSunset SUPが流行っているようです。




 竹富島のなごみの塔と天の川です。

 空気の澄んだ沖縄離島では、低地でも、ビックリするくらい星が綺麗に見えることがあります。
 なごみの塔は、肉眼ではボーッとしか見えませんが、長時間露光でこんなにハッキリ写りました。




 宮古島のマンゴー農家におじゃましました。7月上旬、完熟マンゴーが部屋に溢れていました。

 2㎏を注文したところ、量りからから1コ落ちてしまいました。落ちたといっても畳の上に落ちただけですが、この1コはおまけ、ということになりました。

 農家直売だと、こういう豪快な売り方をしてくれることがあります。





 黒島に向かう途中の船から撮りました。

 黒島周辺のこの青色は、沖縄のほかの地域ではあまり見られない独特の色です。まさに黒島ブルーです。





 来間島の通称ネコの舌ビーチです。

 コーラルブルーの砕ける波がちょっと堅い感じがしませんか。これは、1/16000秒という超高速シャッターを切ったためです。

 最近のカメラは本当に凄いですね。




 2年前、当ブログは10周年に到達し、「もう何時でも止めていい」などと宣言しちゃったのですが、その後も止める止めるサギ?で2年間経過しました。

 まだ、沖縄に行きたいし、書きたいことが思い浮かんでくるし、ありがたいことに読んでくれる人もいるので、13周年記念の記事が書けるよう、まあ頑張ります。





 宮古島のパイナガマビーチの朝です。




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