あの小さな竹富島には、むかし、いくつもの村がありました。
一番最初に出来たのが、新里(しんざと)村です。今そこに集落はなく、遺跡として細々と保存されています。
多いときでは、年間50万人もの観光客が押し寄せる竹富島ですが、港から徒歩で5分ほどのこの場所にやって来る観光客は、まずいません。
「アバ石のあるところを掘れば甘水が出る」。竹富島では、古くからそう言い伝えられています。
アバ石とは、チャート(角岩)のことで、非常に堅い岩石です。竹富島は、隆起珊瑚の島で、大部分は多孔質で柔らかい琉球石灰岩で出来ています。
その堅いアバ石の上に降った雨は、アバ石には染みこまず周辺に流れる訳ですが、アバ石の周りが多孔質で浸透性の高い琉球石灰岩であれば、そこには水が貯まるから、掘ってみれば水が出る、ということなのだそうです。
かつては井戸を中心に集落ができたとされており、新里村遺跡の発見により、新里村が竹富島の発祥地ということが明らかになりました。
ここにはかつて、花城井戸(ハナクンガー)という井戸があり、12世紀頃から井戸を中心にして、村が栄えたということです。
内地では、平安時代から鎌倉時代といった時代です。
この白くて、いかにも堅そうなのが、新里村のアバ石です。
竹富島には、六山(むーやま)という、特に重要だとされる御獄(うたき。竹富島では、おんと言います。)があります。
18世紀に編纂された琉球国由来記によれば、六山に祀られる神々は、それぞれの部族の酋長6人によって、本島・久米島・徳之島・屋久島から分神したと記されています。
この六山の存在から、竹富島は、本島・久米島・徳之島・屋久島からやって来た人々により形造られたと考えられ、同時に、粟・麦・豆も伝来したとか。
そしてその部族の集落が、今の、東(あいのた)・西(いんのた)、仲筋(なーじ)の各集落に繋がったと考えられるそうです。
その全ての始まりは新里村からです。
遺跡からは、稲作や麦作の痕跡も見つかったそうです。隆起珊瑚の島は農業には適しませんが、先人達はそれを克服しようとしたのでしょうか。
海の向こうは石垣島です。新里村の人達は、毎日こんな海を、そして大きな石垣島眺めていたのでしょう。
歴史的には貴重な遺跡でも、観光地としては超絶地味です。竹富島として誰もがイメージする、花咲乱れる伝統集落とは打って変わって、何もない場所です。
島の有志によって、かろうじて草刈り等の手入れがなされ、現状が維持されていますが、観光名所とはほど遠いものです。
しかしながら、竹富島に多少なりとも愛着があるならば、この場に立ち、この光景を目に焼き付けてから、ネットなどで島の歴史を辿るのも悪くないと思うのですが。
竹富島には八重山諸島を統括した蔵元(行政府)もありました。祭りなどの伝統行事の多さでも、八重山の中でずば抜けています。
それにしても何故、こんな小さな農業にも適さない島に人が集まり、歴史を刻んだのでしょうか。
石垣島に近かったからでしょうか。平坦だったからでしょうか。それとも、井戸水があったからでしょうか。
※ 八重山諸島の考古学(石垣市教育委員会)を参考にしました。
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