2024年8月22日木曜日

神秘の池? 魔性の島? 下地島の通り池伝説




 下地島の名勝、ビュースポットの通り池。

 沖縄らしいコーラルブルーとまったく違った、紺碧の海。海?そう、ここは池ではなく海の一部なのです。


 そんな通り池には、伝説があります。

 それも、口伝・言い伝えの類いではなく、宮古島の歴史的文書に登場したり、民俗学的にも重要な話かも知れなかったりと、なかなか興味深いものがあります。

 そこで今回は、通り池、そして下地島にまつわる伝説をご紹介します。
 ミステリアスで、しかもアカデミックかも知れない、通り池伝説の世界へようこそ。




 「宮古島記事仕次(みやこじまきじしつぎ)」には、次のような話が載っています。
 
 昔、今の通り池がある辺りには、下地という村があった。あるとき村の漁師が「ヨナタマ」という魚を釣った。この魚は、人のような顔をもった魚で、よくものを言う(話す)魚だと伝えられていた。漁師は、珍しいので人に見せようと思い、炭火をおこして炙って乾かしていた。

 その夜遅く、隣家に母親と一緒に泊まっていた子供が急に大声で泣き出し、伊良部村に帰りたいと言い出した。夜中だったので、母親は何とかなだめようとしたが、子供は泣き止むどころか一層激しく泣き叫んだ。母親が仕方なく子供を抱いて外へ出ると、子供は母親にしっかりとしがみついて震えている。

 母親はどうしたものかと怪訝に思っていると、どこからか「ヨナタマ、ヨナタマ、どうして帰りが遅いのか」という大きな声が聞こえてきた。ヨナタマは「私は今、炭火の上に乗せられて半夜も乾かされています。早く迎えをよこしてください」と答えた。母子は身の毛がよだち、急いで伊良部村に向かった。

 翌朝、母子が下地村に戻ろうとすると、村は一夜のうちに大津波に洗いつくされて、跡形もなくなっていた。
 母子だけはどういうご利益があったのか、災難を免れたというお話。


 「宮古島記事仕次」とは、1748年に編纂された 、宮古島旧記類の一つです。旧記とは、先人が書き残した宮古島に関する史料をまとめたもので、この本には、島始神託に始まり、宮古の神話・伝承などがまとめられています。


 民俗学者の柳田國男は、自身の著作の中で「ヨナタマ(海霊)」としてこの話を取り上げています。

 「ヨナタマは、沖繩だけでなく、本土でも形を変えて伝わっているが、沖繩では昔からこの話が、大津波に結びついて残っている。本島にも、来間島にも残っているが、この話が一番有名である。」

 「ヨナタマの罰を受けて村中が流されてしまったというのは、ヨナタマは海霊(であり)、海の神の罰を受けたということで、このヨナタマから『ヨナ』が海という言葉と同じではなかろうかと思うのである。」と結んでいます。


 そう言われてみると沖縄には、与那嶺、与那国、与那原といった「ヨナ」のつく地名が多く、宮古島の与那覇地区は、ヨナタマ伝説があるとされる来間島の対岸に位置します。



 この話のバリエーションと思われる別の伝説では、漁師が人魚を捕まえて、小屋に閉じ込めておいたところ、人魚から助けを求められた海帝が、岩に穴を開けて人魚を逃がし、それが今の通り池になった、というものがあります。




 続いては、「雍正旧記(ようぜいゆうき)」に記されたものです。

 昔、下地村に住んでいた漁師が妻に先立たれ、後妻を迎えた。漁師には子供がいたが、親子は仲良く暮らしていた。しかし、夫婦に子供が生まれると、妻は先妻の継子である兄を疎ましく思うようになった。

 ある日、男が漁に出かけると、妻は二人の子供を連れて通り池に行き、兄を池の端に寝かせ、寝入ったら池に落とそうと企てた。妻は、継子の兄を滑りやすいつるつるとした岩場に、実子の弟をごつごつとした岩場に寝かせた。

 妻は、夜中につるつるとした岩場に寝ていた子を通り池に突き落とすと、残った子を背負って一目散に家へと走り出した。すると、背中の子がこう尋ねた。「弟はどうしたの。」優しい兄は、岩がごつごつして眠れないという弟と場所を変わってやっていたのだ。

 妻は、知らずに自分の子を池に突き落として殺したことに気づき、自分も通り池に飛び込んで命を絶った。


 雍正旧記は、雍正五年(1727年)、首里王府への各種報告書の控を編纂した記録で、 宮古内の30村の所在地、蔵元からの距離、寺社などの公署、井戸の掘削年・修補年、城跡、御嶽の由来や祭神、役人の人事記録、特産物、港の数、功労者などが記されているそうです。




 実際の通り池は、元々は陸地だったところに、地下から海水が入り込み、その浸食によって大きな穴となり、天井部分が崩落して今の形になったと言われています。

 通り池の名前の由来でもあります。沖縄県指定の天然記念物でもあり、水深は、25mだそうです。

 Google先生の地図を見れば、二つの大きな穴がよく分かります。




 下地島には、キドマリ村という集落があり、16世紀頃から、伊良部島から人が渡って耕作や牧畜を行っていましたが、1771年の明和の大津波で壊滅的打撃を受けて荒れ果て、19世紀の琉球処分の際には、ほぼ全島が国有地とされました。


 今では宮古島と伊良部大橋で結ばれ、宮古島市の一部となった伊良部島ですが、ホンの数十年前までは、多くの人が住む、宮古島とは独立した島でした。

 下地島は、そんな伊良部島の目と鼻の先にあり、平坦で一見農業にも適していますが、度々大津波に襲われ、人が定住するには至らなかったようです。

 ヨナタマの話は、津波に襲われる有様を、子を突き落とした話は、近寄ってはいけない魔性の島だということを、伝えるものだとも言われています。
 真偽のほどは分かりませんが、思わず納得してしまいました。


 時系列的に見れば、どちらの話も、明和の大地震より前ということになりますが、宮古諸島で一番西にある下地島は、以前から度々大津波に襲われてきたそうです。



 通り池の近くにある帯岩です。

 左側に小さく鳥居が写っていますが、この巨大な岩は、明和の大津波で打ち上げられたと伝えられています。
 以前は、それは言い伝えに過ぎないと思っていたのですが、東日本大震災を経験してから、本当かも知れないと思うようになりました。




 今下地島といえば、真っ先に思い浮かぶのは下地島空港だと思いますが、下地島空港が建設できた理由は、全島国有地で、用地買収の必要がなかったからです。

 そう考えると、世の中複雑ですね。


 17ENDから、通り池、中の島、渡口の浜(下地島側)と絶景が続く下地島ですが、一方では、御獄もなく伝統の祭りもありません。
 それは、ないのではなく、なくなったのかも知れませんね。
 




 この記事は、柳田國男「故郷七十年」、琉球大学デジタルアーカイブ、宮古島市HP、沖縄県地名大辞典などを参考にしました。


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