2018年1月16日火曜日

石垣島の観光名所唐人墓とロバート・バウン号事件



 沖縄離島には似つかわしくない、派手な建築物は、石垣島にある唐人墓(とうじんばか)です。

 石垣島の観光名所であり、団体ツアーのほとんどがここに立ち寄ります。そして、施設の見学と共にある物語を聞かされます。

 それが、ロバート・バウン号事件です。

 

 
 1852年、日本がまだ江戸時代だったころ、アメリカの奴隷貿易船、ロバート・バウン号は、約400人中国人の苦力(クーリー)を乗せて、福建省からカリフォルニアに向かっていました。

 苦力とは、中国やインドの下層労働者の呼称で、19世紀後半、黒人奴隷に代わる労働力として売買されていたそうです。

 航海の途中、苦力達は、弁髪をそぎ落とされたり、奴隷として売り物にならない病人が海中に投棄されるなどの虐待を受けたことに腹を立て、船内で暴動を起こし、船長ら7人を殺害、船を奪取しました。
 その後、台湾に向かうものの、石垣島の崎枝沖で座礁。八重山政庁の蔵元は、現在の墓がある冨崎原に仮小屋を建てて、生存者380人を収容したのですが、米英の兵船が3回にわたり来島し砲撃を加え、武装兵を上陸させて山中に逃亡した中国人らを捜索し、銃撃・逮捕し、それを逃れた者も自殺したり疫病で病死したりと、多数の犠牲者が出る騒ぎとなりました。

  これに対し琉球王府と蔵元は、人道的に対応し、島民も密かに食料を運び込み、死者に対しても一人ひとりに石積みの墓を建立して丁重に祭り、生存者172人は関係国との交渉の末、翌年9月、琉球の護送船で福州に送還したのです。


  この事件で犠牲となった人の霊を慰霊するため、石垣市と台湾側とで1971年に建立したのがこの唐人墓で、現在の墓は1982年に改修され、説明文も事件の概要を伝えるものに書き改められました。




 物語は、米英の植民地主義者による中国人労働者略取販売という非道と、それに対する八重山の人達の人道的な対応、という美談として語られます。


 一方、一部の研究者は、物語を検証し、疑問点や問題点を指摘します。

 実際に英米兵に殺害されたのは3人で、犠牲者の多くは疫病によるものだが、その理由の一旦は、収容施設の衛生状態がよくなかったことによる。
 苦力は、誘拐同然に集められたという説もあるが、時代背景からみれば、必ずしも奴隷的な労働者だけでなく、知識階級の人々の出稼ぎもあった。
 漂着や座礁したのでなく、石垣島を台湾と間違えて上陸した形跡がある。
 英米の砲撃も威嚇砲撃程度であった。

 ことなどの可能性が指摘されています。

 「中国と琉球の友好の歴史の証人」とする論文が出る一方で、これを真っ向から否定する見解もあるそうです。




 我々が知るべきなのは、史実であって、物語ではありません。美談に酔いしれて良い気分に浸るには、ちょっと重過ぎる事件です。

 ですが、ロバート・バウン号事件そのものはノンフィクションであって、後に英米の船が、三度八重山の地にやって来て、砲撃したことも紛れもない事実です。
 収容施設の衛生状態が悪かったとしても、それは、当時のこと。島民自体が貧しかった中で、突然やって来た大量の漂流者に、必ずしも十分な保護ができなくてもやむを得なかったのかも知れません。
 いきさつはともかく、生存者を送り届けたのも事実のようです。
 飛び道具で襲撃してきた英米船に、丸腰同然の島民は、なす術もなかったことでしょう。

 内地から遠く離れた八重山では、やはりそれなりの歴史を背負っています。単純に善悪に色分けすることや、過大に盛って美談として語ること、逆に過小評価することは、いずれも適当とは思えません。
 



 唐人墓は、団体観光客のほとんどが見学して行くのに対し、海遊び目的で訪れる個人客は、ほとんど見向きもしない場所です。

 しかし、あの派手な建物は、観光客向けのテーマパークではありません。過去に石垣島が巻き込まれた重い事件のシンボルです。
 真の沖縄好きであれば、一度足を運んでみてはいかがでしょうか。
 
 離島桟橋から、車なら10分程度。観音崎のお隣です。川平行きのバスも停車します。


 余談ですが、唐人墓は、「とうじんばか」と読みます。墓を「ばか」と濁音で読むのは、あちらでは一般的なのですが、「ばか」が「馬鹿」と誤解されないよう、東運輸のバス停は「唐人の墓(とうじんのはか)」となっています。



 おい、お前ら、罰が当たるぞ!

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